「そういえば、そろそろコラボイベントだったよね」 静かに執務室の資料を読んでいた雫が、おもむろにそう口にした。 「ああ。開催は月末あたりからだな」 コラボイベントというのは、都内の温泉施設で行うもののことだ。 何度も打ち合わせで現地に伺っているし、予定表にもしっかり記載してあるから、間違いない。 今回のイベントはアイドルのみんなが現地に行くのではなく、物販が主体となるものだが…。 「気になってるのか?」 「うん。貴重なグッズ、たくさん出るから、ずっと楽しみにしてた」 「現地まで買いに行くつもりなのか?頼めばメーカーさんから回してもらえると思うが…」 「ダメ。推しのグッズは、ちゃんと自分のお金で買う」 そういうところは雫らしいな。 「そうか。詳細はもう少ししたら発表できるから、待っててくれ」 「うん。…今日も、打ち合わせ?」 「ああ。おっと、そろそろ移動しないといけないな。うっかりしてた」 …おや?雫が何か言いたそうにしているような。 「どうかしたのか?」 「ん、ええと…一緒に行っても、いい?あ、打ち合わせには出ないから、邪魔には、ならない」 「雫はこの後特に仕事は無かったよな?構わないが…温泉に入りたいのか?」 「温泉も気になる…というか、待ってる間に入るつもりだけど。  それとはまた別に、あの辺にちょっと思い出があって」 「そうなのか。それなら、一緒に行こうか」 「うん。…ありがとう、ございます」 「気にしなくていいよ。それより、出かける準備をしよう」 「…うん」 なんだか寂しそうなのがちょっと引っかかる。 本人が行きたいと言っているんだから、無理に問いただす必要もない…だろうか。 移動中の社用車の車内でも、雫の様子は不自然なままだった。 無理して話題を振ろうとしているみたいだが、どこか上の空のような…。 うん、打ち合わせが終わって落ち着いたら、やっぱりちゃんと話を聞いてみよう。 ----- 打ち合わせは滞りなく終わり、雫にメッセを送った。 どうやらもう上がっているみたいだ。施設内を歩いていると、程なくして雫を発見した。 「あ、牧野さん。打ち合わせお疲れ様、です」 下ろした紙と眼鏡で、完全なオフスタイル。 お風呂上りで上気した頬が、妙に艶やかに見えた。 「?どうかした?」 「あ、いや…何でもない。それより、温泉はどうだった?」 「ん、結構色んな種類のお風呂があって、楽しい。お肌もすべすべ。…触って、みる?」 「いや、触らないから」 「むう。あ、あと、プールみたいになってるところもあるみたい。水着持ってたら、一緒に入れる」 「ああ、いただいた資料にも書いてあったな」 温泉のおかげで少しは気分が晴れたんだろうか。さっきまでよりは元気になったように思える。 「そういえば、この辺に用があるんだろう?この後回ってみるか?」 「あれ、牧野さんは、温泉入らなくて、いいの?」 「俺はいいよ。それより、雫が行きたかったところなんだろう?雫のやりたいことに付き合うよ」 そう言うと、雫はちょっとだけ顔を赤くした。 「う、うん。ありがとう、ございます…。」 「それで、どこに行くんだ?車出した方がいいか?」 「あ、ええと…。ここのすぐ近くだから、歩く」 「そうなのか。それじゃ、案内してくれるか?」 「…うん。えっと、それじゃ、とりあえず外、出よう」 一体どこへ行くつもりなのか。 俺は雫の後について温泉施設を後にした。 ----- 施設の外の道路を、最寄り駅方向へ向かって歩く。 坂道を登っていくと、大きな公園の入口が見えた。 …あ、思い出した。何年か前、ニュースで遊園地の閉演の話が流れていたっけ。 今はすっかり解体されて、奥の方に何かの施設ができているみたいだが…。 「小さい頃に来て以来だけど、この道、覚えてる…」 雫が、静かに話し始めた。 「昔、ここにあった遊園地…お姉ちゃんが、連れてきてくれた」 「もねさんか。今でも覚えてるなんて、本当に楽しかったんだな」 「うん。…星見市に引っ越してから、閉演になるのを知って…いつかまた来たいと思ってた。  でも、アイドルになってからずっと忙しくて、すっかり忘れちゃってた…。  だから、今回のコラボのことを聞いた時、嬉しかった。大切な思い出、ちゃんと思い出せた」 「そうか…」 何か言おうとして、やめた。 雫の目に浮かぶ涙を見ていたら、ただそばにいて、頭を撫でてあげたくなった。 思い出の場所が無くなったり、大切な人のことを忘れていってしまうのは、寂しいもんな…。 雫はしばらくそのまま静かに、記憶の中とは異なる景色を眺め続けていた。 ----- 「…ありがとう、もう大丈夫」 「もういいのか?」 「うん。ちゃんと思い出せて、よかった」 そう言う雫の表情を見て、俺はただ頷いた。 「あ、でも…」 「ん?」 「あっちにできた新しい施設も、今度時間が出来たら、行ってみたい」 「ああ、あれか?気にはなっていたんだが、何の施設なんだ?」 「えっとね…」 雫がスマホを操作して、俺に画面を見せてくれた。 これは、あの施設のホームページか。 「ああ、これって…」 「うん、昔流行った、魔法学校の映画のスタジオツアー施設。  何年か前に出たゲームも面白かったから、じっくり見たい…!」 無くなったものを悲しむだけじゃない。思い出は思い出としてしまっておいて、新しい楽しみを見つける。 雫の姿勢は、俺も見習わないといけないな。 「また、連れてきてくれる…?」 「ああ、いいよ。そうだ、もうすぐ雫の誕生日だし、その時とかどうだ?」 「え。う、うん…思ったより、すぐだね…でも、嬉しい」 「そうか、よかった。それじゃ、約束だ」 「…うん」 今日一番の、雫の晴れやかな笑顔。 連れてきてあげてよかったな。 「あ、そうだ」 「?どうしたの?」 「やっぱり、俺も温泉入っていこうかな。雫はどうだ?」 言いながら、俺は自分の目元をそっと指差した。 「あ…うん。私も、入りたい」 どうにか意図は伝わったみたいだ。 涙の跡を残して帰すわけにはいかない。 悲しみだけは綺麗に洗い流して、大事な思い出と次の楽しみを持って帰ろうな。 終わり。