◎作品タイトル 『聖骸のアララト』 ◎概要 これは、神々の遺した「救いの言葉」を求めた者たちの、裏切りと愛憎の旅路。そして、世界の終わりに神の意志に背き、最後の希望を繋ごうとした物語。 純真な聖職者アルスと、彼を守護する三人の訳ありな女性たち――元盗賊のフレイヤ、快楽主義者のリリス、元魔女のヘカテ。賑やかだった彼らの巡礼の旅は、圧倒的なカリスマを持つ提督ノアムとの出会いを機に、欲望と背徳が渦巻く呪われた航海へと変貌する。 やがて一行が辿り着いた旅の終着点は、人類救済の奇跡ではなく、選ばれた者だけが生き残るための残酷な神の御心「方舟計画」の始まりだった。滅びゆく世界を前に、ある者は運命を受け入れ、ある者は神意にすら抗う。それぞれの正義とエゴがぶつかり合う、絶望と再生の叙事詩。 ◎登場人物 アルス (男): 失われた「神々の言葉」を探し求める、心優しき聖職者。誰の罪も許そうとするお人好しだが、その純粋さが時として人を傷つけ、また人を惹きつける。 フレイヤ (女): 貧民街育ちの元盗賊。口は悪いが面倒見が良く、世間知らずなアルスを放っておけない。現実的な策略を巡らせては、理想家のアルスにその手段を咎められ衝突する。 リリス (女): かつて高位の聖職者との許されざる恋に身を焦がし、すべてを失った過去を持つ元巫女。背徳的な状況にこそ悦びを見出すマゾヒスト。 ヘカテ (女): 幼い少女の姿をしているが、その実、数百年の時を生きる元大魔女。かつて犯した大罪を償うためと称し、アルスに母親のような過剰な愛情と干渉を注ぐ。 ノアム (男): 「新天地」を目指す船団を率いるカリスマ提督。神への狂信的な信仰心と、底なしの物欲・支配欲を併せ持つ。その圧倒的な意志の力で、人の心を容易く掌握する。 ◎本編 ■第一部【序】偽りの巡礼団 第1章:忘れられた聖者の祈り 石畳を渡る風が、懺悔の言葉のように低く呻いていた。 グランドル修道院は、世界の忘れられた背骨のような山脈に抱かれ、千年の時を苔としてその身に纏っている。麓の街の喧騒も、王国同士の終わらない諍いの鬨の声も、この峻厳な静寂の前では意味をなさなかった。ここではただ、祈りの声だけが意味を持つ。 祭壇の前に、一人の青年が跪いていた。名はアルス。洗い晒されて白茶けた聖職者の衣をまとったその背中は、まだ頼りないほどに細い。陽光が、天窓に嵌められた巨大なステンドグラスを透かし、七色の血となって彼の足元に滲んでいた。描かれているのは、蛇の体に獅子の頭を持つ神が、人の子に炎の文字を授けるという、今では誰も解釈できなくなった古い神話の一場面だ。 「ああ、名もなき神々よ。天上の父よ、大地の母よ。森に息づく精霊よ、川を流れる魂よ」 アルスの声は、澄んだ湧水が石を打つように静謐な聖堂に響く。彼はこの修道院で生まれ、物心ついた時から祈りを捧げてきた。その祈りは、特定の唯一神に向けられたものではない。この混沌とした世界に散らばる、ありとあらゆる信仰の残滓、そのすべてに向けられていた。 「もし、この世界にまだ慈悲が残されているのなら。どうか、迷える魂たちにお導きを。奪う者にも、奪われる者にも、等しく安らぎの眠りが訪れますように」 彼の琥珀色の瞳は、祭壇の奥に安置された空っぽの石櫃に向けられていた。かつてそこには、世界を調和に導いたという「神々の言葉」が納められていたと伝えられている。だが、それは遥か昔に失われ、今や石櫃はただ虚空を抱いているだけだった。 「アルス」 背後からかけられた声は、古びた羊皮紙のように乾いて、それでいて温かみがあった。アルスが振り返ると、皺深い顔をした院長が、石柱の影に杖をついて立っていた。 「院長猊下」アルスは立ち上がり、深く頭を下げた。 「お前の祈りは、いつも長いな」院長はゆっくりと歩み寄り、アルスの隣に立つと、同じように空の石櫃を見つめた。「その熱心さ、主に届くと良いのだが」 「届くと信じています。いつか必ず」 院長の目は、ステンドグラスの光を受けて、深い森の湖のように静まり返っていた。彼はアルスの横顔をじっと見つめる。この修道院で育てた、誰よりも心優しく、誰よりも純粋な青年。その純粋さは、この隔絶された聖域の中では美徳であったが、一歩外に出れば容易く砕け散る硝子の美徳でしかないことを、彼は知りすぎていた。 「お前が『言葉』を探す旅に出たいと願っていること、知っている」 アルスは息を呑んだ。院長の静かな声には、咎める響きはない。ただ、どうしようもない事実を告げるような、諦観にも似た響きがあった。 「なぜ、それを」 「お前がこの十年、毎日欠かさずあの石櫃に祈りを捧げている。私に分からぬとでも思うか」院長はふ、と短く息を吐いた。「無駄なことだ、アルス。あれは伝説だ。人々が、あまりの苦しみに耐えかねて作り出した、慰めのための御伽噺に過ぎん」 「御伽噺ではありません」アルスは、普段の彼からは想像もつかないほど強い口調で言った。「猊下もご存知のはずです。古い文献には確かに記されていました。かつてこの世界が、今よりもずっと多くの神々の愛で満たされていた時代があったと。その調和の中心に、『言葉』があったと」 「そして、その調和は破られた。神々は互いに争い、あるいは世界を見捨てて去っていった。その結果が今のこの世界だ。北の帝国では氷の巨人を神と崇め、南の砂漠では太陽の舟に乗るという犬頭の神官が国を支配している。東の島々では八百万の神々が人の信仰を喰い合っている。空には天使の羽を持つ商人が飛び、裏路地では悪魔が魂を担保に金を貸す。どこに調和がある。どこに救いを求めろというのだ」 院長の言葉は、冷たい真実の刃となってアルスの心を抉る。だが、彼の瞳の光は揺らがなかった。 「だからこそ、です」アルスは院長を真っ直ぐに見据えた。「だからこそ、誰かが思い出さなければならない。かつて私たちが、ひとつの家族であったことを。『言葉』は、そのための鍵のはずです。たとえ御伽噺だと言われても、僕は信じたい。信じて、探しに行きたいのです」 沈黙が落ちる。風の音が、遠い世界の嘆きのように聖堂を吹き抜けていった。やがて院長は、深く深く溜息をついた。それは諦めであり、そして覚悟を決めた者の息遣いでもあった。 「……お前のその目は、昔の私によく似ている」 杖を鳴らし、院長はアルスに背を向けた。「外の世界は、お前が思うよりもずっと残酷だぞ。お前のその優しさは、弱さだと嘲笑われるだろう。お前のその信頼は、裏切るための隙として利用されるだろう。それでも、行くというのか」 「行きます」迷いのない答えだった。 「そうか」院長はそれ以上何も言わず、ただゆっくりと歩き去っていく。その背中は、この修道院が纏う苔のように、静かで、重いものに見えた。 その夜、アルスは簡素な荷物をまとめた。数日分の硬いパンと干し肉、水の入った革袋、そして父の形見である一冊の古い聖典。それだけが彼の全財産だった。 東の空が白み始め、鳥たちの歌声が夜の闇を少しずつ洗い流していく。アルスは誰にも告げず、修道院の小さな裏門からそっと抜け出した。振り返ると、灰色の石造りの建物が、夜明け前の薄明かりの中に巨大な墓標のように佇んでいる。彼が育った世界、彼を守ってくれた揺り籠。 その最上階の、院長の私室の窓に、小さな灯りが揺れているのを彼は見た。 院長は、きっと眠らずに彼の旅立ちを見送っている。言葉にはしなかったが、その灯りは何よりも雄弁な祈りとなって、アルスの背中を押しているように感じられた。 アルスは胸の前で短く祈りを捧げると、もう一度だけ修道院を振り返り、そして、前を向いた。 世界の背骨を下り、混沌の只中へ。 失われた神々の愛を探す、たった一人の巡礼が、今、始まった。 第2章:路地裏のじゃじゃ馬 アルスが下界に降りて、七日が過ぎた。 修道院の峻厳な静寂に慣れた耳には、街の喧騒はまるで暴力だった。怒声と物乞いの声、荷車の軋みと鍛冶の槌音、酒場で繰り広げられる猥雑な歌声。それら全てが混じり合い、淀んだ熱気となって肌に纏わりつく。 商業都市「バベルハイム」は、その名の通り混沌の坩堝だった。天を突くように歪な塔がひしめき合い、その間を縫うように渡された吊り橋や縄梯子を、様々な種族が行き交う。翼を持つ鳥人族の運び屋が空を掠め、屈強なドワーフの傭兵が大きな斧を担いで闊歩する。路地裏の薄暗がりでは、フードを目深に被った何者かが、怪しげな色の液体が入った小瓶を取引していた。 アルスの白茶けた聖職者の衣は、この極彩色の混沌の中ではあまりにも異質で、良くも悪も人々の目を引いた。物珍しげな視線、侮蔑の眼差し、そして獲物を見定めるような貪欲な光。彼はそのすべてをただ純粋な好奇心として受け止め、誰かに道を尋ねるたびに、丁寧すぎるほどの感謝を捧げていた。 「ありがとうございます。あなたに神々の御加護がありますように」 「けっ、いらねえよ、そんなもん。それより坊主、一杯どうだ? こいつを飲めば天国が見えるぜ」 牙を剥き出しにして笑う獣人の男に勧められた酒を、アルスは真顔で受け取ろうとして、危うく有り金をすべて巻き上げられそうになった。彼はまだ、この世界で「親切」がいかに高価なものであるかを知らなかった。 事件が起きたのは、そんな無防備な旅の昼下がりだった。 広場に面したパン屋の前で、アルスはなけなしの銅貨を握りしめ、どのパンを買うべきか真剣に悩んでいた。その時、鋭い悲鳴が彼の耳を打った。 「ど、泥棒ッ! 誰か、誰か捕まえて!」 パン屋の女将の甲高い声に、広場の人々が一斉に振り返る。その視線の先を、人波を掻き分けるようにして駆けていく一つの影があった。小柄で、動きの素早い、少年とも少女ともつかない姿。その手には、盗んだのであろう焼き立てのパンが二つ、しっかりと握られていた。 「待ちなさい!」 アルスは考えるより先に駆け出していた。彼の足は修道院の長い回廊を歩き慣れているだけあって、意外なほど速い。人混みを抜け、入り組んだ路地へと逃げ込む影を、彼は必死に追いかけた。 壁を蹴り、屋根に渡された物干し綱の上を渡り、ゴミの山を飛び越える。その身のこなしは、野良猫のようにしなやかで、慣れたものだった。アルスもまた、必死にそれを追う。聖職者とは思えぬ身軽さで屋台の天幕に飛び乗り、隣の建物の窓枠に掴まって、どうにか食らいついていく。 やがて影は、陽も差さないような袋小路へと追い詰められた。ぜえ、ぜえ、と荒い息をつきながら、影はゆっくりと振り返る。フードがはらりと落ち、現れたのは、気の強そうな光を宿した、吊り目の少女の顔だった。歳はアルスよりいくつか下だろうか。切りそろえられた赤毛が、汗で額に張り付いている。彼女は警戒する獣のように背を丸め、アルスを睨みつけた。 「……しつこい奴」 吐き捨てるような声は、見た目に反して少し掠れていた。彼女は盗んだパンを胸に抱きしめ、いつでも飛びかかれるような体勢をとっている。 「パンを返しなさい」アルスは息を整えながら、穏やかに言った。「盗みは、いけないことだ」 「うるさい!」少女は牙を剥く。「腹が減ってるんだ、仕方ないだろ。あんたみたいな、腹を空かせたことのない坊主に何がわかる!」 「僕だってお腹は空きます」 「そういう意味じゃない!」 少女の苛立ちが、狭い路地に反響する。アルスは彼女の瞳の奥に、空腹や怒りだけではない、もっと深い疲労と諦観の色が滲んでいるのを見た。その瞳は、まるで助けを求めることをやめてしまった小動物のようだった。 その時、路地の入り口から複数の足音が響いた。都市の警備隊だ。槍を構えた二人の兵士が、パン屋の女将を伴って現れた。 「いたぞ! あのガキだ!」女将が少女を指差して叫ぶ。 少女の顔から、さっと血の気が引いた。この都市の法は厳しい。盗みを働いた者の手首が、広場で切り落とされることも珍しくはない。絶望が彼女の顔を覆う。 「さあ、おとなしくしろ!」 兵士たちがじりじりと距離を詰めてくる。少女は観念したように、ぎゅっと目を閉じた。 その瞬間。 アルスは、とっさに少女の前に立ちはだかっていた。 「お待ちください」 兵士たちが怪訝な顔で足を止める。 「なんだ、お前は。そいつの仲間か、聖職者さんよ」 兵士の一人が、アルスの身なりを侮るように値踏みしながら言った。 「いえ」アルスは静かに首を振った。「ですが、彼女は盗んではいません」 「はあ?」 兵士も女将も、呆気にとられた顔をする。当の少女本人でさえ、信じられないというように目を見開いてアルスを見上げていた。 「彼女は、僕の代わりにパンを買いに行っただけです」アルスは臆することなく続けた。「僕が彼女にお金を渡して、お願いしたのです」 「ほう」もう一人の兵士が、槍の石突きで地面をこつりと鳴らした。「金を渡した、ねえ。それなら、あんたの手の中にあるそれは何だ? ここのパン二つと、ちょうど同じ値段の銅貨に見えるが」 鋭い指摘に、アルスは息を詰まらせた。彼はパンを買うために握りしめていた銅貨を、咄嗟に隠すことすら忘れていたのだ。 「そ、それは……」アルスは狼狽したが、それでも引かなかった。彼の純粋な心は、ここで嘘を重ねるという、さらなる罪を思いついた。「……これは、彼女の正直さを試すためのものでした。はい、信仰の試練です。見ず知らずの僕の頼みを、彼女が誠実に果たしてくれるかどうか、神が見ておられると」 そのあまりにも拙く、苦し紛れの言い訳に、路地の空気が一瞬、凍りついた。兵士たちは顔を見合わせ、こらえきれずに鼻で笑う。パン屋の女将は、呆れてものも言えないというように腰に手を当てた。 「……へえ、信仰の試練、かい」女将は、乾いた声で言った。「あたしらみたいな商売人には、到底思いつきもしないような高尚なこったね。で、その『試練』の結果、あたしの店のパンが勝手に持ち出されたってわけかい」 「申し訳ありません。すべては僕の不徳の致すところです」 アルスは深々と頭を下げた。その姿には、嘘をついている者の狡猾さは微塵もなく、ただ愚直なまでの必死さだけがあった。 兵士たちは、つまらなそうに舌打ちをした。聖職者相手に事を荒立てるのは面倒だ。まして、こんな見え透いた嘘を信じるほど馬鹿ではないが、それを公衆の面前で暴いてやるほどの義理もない。パン数個のことで、後々教会からいちゃもんをつけられるのはごめんだった。 「……チッ。分かったよ、分かった」槍を持った兵士が、面倒臭そうに手を振った。「聖職者様の言う『試練』とやらを、俺たちが邪魔するわけにもいかねえからな。だが、次はないぞ。分かったな、そこのガキ」 「なんだい、もうおしまいかい」女将は不満そうに口を尖らせたが、兵士が睨みを利かせると、大きなため息をついた。「……はいはい、分かりましたよ。でも、代金だけはきっちり払ってもらうからね、聖職者様。これも『試練』のうちなんだろう?」 皮肉たっぷりの言葉と共に、彼女はアルスの前に無造作に手を突き出した。 嵐が過ぎ去ったように、兵士と女将は去っていく。路地裏には再び、気まずい静寂が訪れた。 アルスはほっと息をつくと、女将に言われた通り銅貨を握りしめ、店へと向かった。そしてすぐに、焼き立てのパンを二つ持って戻ってくると、少女に向き直った。 「さあ、パンを。代金は僕が払っておきましたから」 少女は、しばらくの間、アルスの顔と、彼が差し出すパンを交互に見つめていた。やがて、何かを諦めたように大きな溜息をつくと、盗んだパンの一つを無造作にアルスに放り投げた。 「……あんた、バカだろ」 「え?」 「本物の、筋金入りの大バカだって言ってんだよ。あんな嘘、誰も信じちゃいない。あんたが聖職者じゃなきゃ、今頃あたしと一緒に牢屋の中だ」 「それでも、あなたは無事だった」アルスはこともなげに言った。彼は受け取ったパンをまじまじと見つめると、それを半分にちぎり、片方を少女に差し出した。「さあ、一緒に食べましょう。お腹が空いているんでしょう?」 少女は差し出されたパンを、信じられないものを見るような目で見つめていた。その手は、まだ震えている。彼女は恐る恐るパンを受け取ると、小さな口でかじりついた。焼きたての、温かくて柔らかいパンの味が、口の中に広がる。それは、彼女がここ数ヶ月で口にした、何よりも優しい味だった。 「……フレイヤ」 「え?」 「私の名前。フレイヤだ」 少女はぶっきらぼうにそう言うと、顔を背けてパンを頬張り続けた。その耳が、少しだけ赤く染まっているのを、アルスは見逃さなかった。 「僕はアルスです」彼もまた微笑んで、パンにかじりついた。 これが、二人の出会いだった。 この日からフレイヤは、借りを返すという名目で、アルスの旅に同行することになった。世間知らずで、すぐに人を信じるこの聖職者を一人にしておいたら、三日も経たずに身ぐるみ剥がされて路地裏で野垂れ死ぬだろう、というのが彼女の主張だった。 「あんたのそのお人好しは、いつか身を滅ぼすぞ」 「大丈夫。君がいてくれるから」 「……調子のいいこと言ってんじゃないよ、この朴念仁!」 賑やかな言い合いが、混沌の街に響く。 こうして、たった一人だった巡礼の旅は、少しだけ騒がしい二人旅となった。フレイヤはまだ知らない。このお人好しな聖職者との出会いが、彼女のささくれた人生を根底から揺るがすことになるということを。そしてアルスもまた、知らない。このじゃじゃ馬な元盗賊が、彼の旅路において、かけがえのない守り手となることを。 第3章:背徳の聖域 バベルハイムの喧騒を後にした二人の旅は、それなりに順調だった。いや、正確に言えば、フレイヤが現実的な手腕を発揮することで、どうにか順調に進んでいた、というのが正しい。 アルスは相変わらず、道端で困っている人がいればなけなしの食料を分け与え、胡散臭い商人の口車に乗りかけてはフレイヤに頭をはたかれ、美しい花に神の創造の奇跡を見出して崖から落ちそうになっては、その襟首を掴まれて引き戻されていた。 「あんた、私がいないと本当に死ぬだろ!」 「ははは、すまない。でも、見てごらんよフレイヤ。あの夕焼けの、なんと美しいことか」 「美しさで腹は膨れないんだよ、この天然聖職者!」 そんなやり取りを繰り返しながら、彼らは次の目的地である「ソドム」の街へとたどり着いた。 ソドムは、欲望が陽炎のように立ち上る街だった。香油の甘い香りと、熟れた果実が腐敗するような匂いが混じり合い、人々の理性を麻痺させる。昼間から開いている酒場では、肌も露わな踊り子たちが客の膝の上で嬌声をあげ、賭博場からは勝者の歓声と敗者の呻きが絶え間なく響いてくる。ここは、快楽こそが唯一の神として崇拝される、背徳の聖域だった。 敬虔な(そして極めて世間知らずな)アルスにとって、この街の空気は毒そのものだった。彼は目を白黒させ、フレイヤの後ろに隠れるようにして歩く。 「ふ、フレイヤ……あの人たち、昼間からあのような……その……」 「見るな、アホ。目を合わせたら骨までしゃぶられるぞ」 フレイヤは舌打ちしながら、アルスの袖をぐいと引っ張る。彼女自身、この種の街は嫌いではなかったが、アルスのような純粋培養の雛鳥を連れているとなれば話は別だ。一刻も早く宿を見つけ、この純真な聖職者を毒牙から守らなければならない。 彼女が目星をつけていた安宿に向かう途中、ひときわ喧騒の大きな酒場が目に入った。その中心に、人だかりができている。好奇心に負けたフレイヤが背伸びして覗き込むと、人垣の中心で、一人の女がテーブルの上に立って高らかに笑っていた。 豊かな黒髪が波打ち、身体の線を惜しげもなく晒す深紅のドレスを纏っている。その瞳は夜の闇を溶かし込んだように深く、唇は血を吸ったように艶めかしい。彼女は手に持った銀の杯を掲げると、周囲の男たちの熱狂的な視線を一身に浴びながら、その中身を一気に呷った。 「さあ、次は誰が私を楽しませてくれるのかしら? 退屈は死より辛いものよ」 その声は、蜜のように甘く、それでいてどこか退廃的な響きを持っていた。男たちが我先にと金貨や宝石を投げ、彼女の気を引こうと競い合っている。彼女はそれらを気怠げに見下ろし、まるで価値のない石ころでも見るかのように、つまらなそうにため息をついた。 「リリス様、麗しい!」 「今宵こそは、私と!」 男たちの野卑な声援が飛び交う。 フレイヤはその光景に眉をひそめた。「……とんでもない女がいたもんだ。男を手玉に取る天才だな」 その時だった。人垣の中心にいた女――リリスが、ふと視線を動かし、その目が人垣の隙間からこちらを覗き込んでいたアルスと、ぴたりと合った。 時間が、止まったように感じられた。 リリスの、退屈と侮蔑に彩られていた瞳が、初めて見るものに出会ったかのように、わずかに見開かれる。それは、泥水の中に咲いた一輪の睡蓮を見つけたような、驚きと好奇の色だった。彼女の唇の端が、く、と蠱惑的に吊り上がる。 「あら……」 リリスはテーブルからしなやかに飛び降りると、モーゼの前の海のように割れる人波を抜け、まっすぐにこちらへ歩いてきた。男たちの嫉妬と戸惑いの視線が、アルスとフレイヤに突き刺さる。 「坊や、あなた、面白い目をしているのね」 リリスはアルスの目の前に立つと、その顔を覗き込んだ。彼女から発せられるむせ返るような香りに、アルスはたじろぐ。 「まるで、生まれたての赤子のよう。こんな穢れた街で、そんな目をしているなんて……罪深いわ」 「え、あ、あの……」 アルスが狼狽えていると、リリスはくすくすと喉を鳴らして笑った。その指先が、アルスの胸元、聖典を収めているあたりを、なぞるようにそっと撫でる。その動きは蛇のように滑らかで、アルスの身体に奇妙な痺れを走らせた。 「待ちな」フレイヤが鋭い声で割り込み、アルスを庇うように前に出る。「うちのアルスに何か用?」 「あら、番犬かしら。可愛いわね」リリスはフレイヤを軽く一瞥すると、興味なさそうに視線をアルスに戻した。「ねえ、聖職者さま。祈りって、本当に意味があるのかしら? 神様は、本当に私たちの声を聞いてくださるのかしらね?」 その問いは、挑発的で、どこか試すような響きを持っていた。フレイヤは、この女がアルスの純粋さを玩具にしようとしているのだと直感した。 だが、アルスは落ち着きを取り戻すと、リリスの瞳を真っ直ぐに見返した。 「はい。神は、常に我々と共におられます。たとえ、私たちがその存在を信じられなくなった時でさえも」 その答えは、あまりにも純朴で、揺るぎない確信に満ちていた。 リリスは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。彼女はこれまで、数多の男たちをその美貌と退廃的な魅力で堕落させてきた。聖職者とて例外ではない。彼らの偽善を暴き、その衣の下に隠された欲望を引きずり出すことに、彼女は倒錯した喜びを感じていた。 だが、目の前の青年は違った。その琥珀色の瞳には、嘘も、気取りも、隠された欲望のかけらも見当たらない。ただ、深く、静かな信仰だけが湖のように広がっている。 「……ふふ、あははは!」 リリスは突然、腹を抱えて笑い出した。それは酒場の男たちを魅了していた蠱惑的な笑いではなく、もっと心の底から湧き上がってくるような、無邪気で、そしてどこか悲しい響きを持った笑い声だった。 「面白い。あなた、本当に面白いわ」 彼女は笑いながら、その瞳にうっすらと涙を浮かべていた。 「ねえ、あなたのお名前は?」 「アルス、と申します」 「アルス……。いい名前ね」 リリスはうっとりとしたようにその名を呟くと、くるりと身を翻した。 「今夜、街の東にある『嘆きの泉』へいらっしゃい。あなたに聞かせてあげたい話があるの」 それだけを言い残すと、彼女は再び人垣の中へと戻り、男たちの熱狂の中にその姿を消した。 「おい、アルス。行くなよ、絶対」フレイヤは釘を刺した。「あの女、ヤバすぎる。あんたみたいなのが行ったら、魂ごと喰われるぞ」 「……行ってみようと思う」 「はあ!?」 フレイヤの絶叫も、今のアルスの耳には届いていなかった。彼はリリスが消えた先を、じっと見つめている。彼女の笑い声に混じっていた、深い悲しみの響きが、彼の心に棘のように突き刺さっていた。 「彼女は、苦しんでいる。僕は、彼女の話を聞かなければならない」 その夜。フレイヤの猛反対を押し切り、アルスは一人で「嘆きの泉」へと向かった。 泉は、かつて聖域だったという廃墟の中にあり、今は逢引の場所として使われていた。月の光が水面に揺れ、幻想的な光景を作り出している。 リリスは、泉の縁に腰掛けて待っていた。酒場にいた時とは違い、質素な黒い衣を纏い、化粧も落としたその素顔は、驚くほど清らかで、儚げに見えた。 「本当に来たのね、お人好しな聖職者さま」 「お話を聞きに参りました」 アルスが隣に座ると、静かな沈黙が流れた。やがてリリスは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。 彼女が、かつては敬虔な巫女であったこと。 神殿で出会った高位の聖職者と、許されない恋に落ちたこと。 二人の関係は神殿の知るところとなり、男は聖職を追われ、彼女もまた神殿から追放されたこと。 愛した男は、すべてを失った絶望から、彼女の目の前で自らの命を絶ったこと。 「私はね、その時わかったの。神なんていないんだって。もしいるとしたら、それは人の幸せを弄ぶ、悪趣味な存在よ。だから私は決めた。神に背き、快楽の限りを尽くして、堕ちてやろうって。愛した男が命を懸けて守ろうとした清らかさを、自ら汚してやることで、私は彼への愛を証明しようとしたの……。馬鹿でしょう?」 自嘲する彼女の肩は、小さく震えていた。アルスは何も言わず、ただ静かにその話を聞いていた。 「でも、どんなに身体を汚しても、どんなに心を殺しても、虚しいだけだった。心の穴は、決して埋まらない。あの人が死んだ日の光景が、今も夜ごと私を苛むのよ」 リリスは膝に顔を埋めた。その背中からは、今まで彼女が纏っていた退廃的なオーラは消え失せ、ただ救いを求める一人の弱い女性の姿だけがあった。 アルスは、そっと自らの聖典を取り出した。そして、震える声で祈りの言葉を紡ぎ始める。それは、罪を犯した者を裁くための言葉ではない。傷つき、迷える魂を慰めるための、古くから伝わる癒しの祈りだった。 澄んだ声が、夜の静寂に響き渡る。 リリスは顔を上げ、驚いたようにアルスを見つめた。彼の祈りは、彼女がかつて神殿で捧げた、どんな荘厳な祈りよりも、温かく、そして力強かった。それは、彼女の凍てついた心の奥深くまで染み渡り、固く閉ざされた何かを、ゆっくりと溶かしていくようだった。 祈りが終わった時、リリスの頬を、一筋の涙が伝っていた。 それは、彼女が愛した人を失ってから、初めて流す涙だった。 「……なぜ、あなたは、私のような穢れた女のために祈ってくれるの?」 「穢れている人など、いません」アルスは静かに言った。「誰もが、過ちを犯し、傷つき、それでも懸命に生きている。神は、そんな私たちをこそ、見守ってくださっているのです」 リリスは、アルスのその言葉を、泉の底から響く啓示のように聞いていた。彼女はしばらくの間、ただ黙って彼の顔を見つめていたが、やがて、ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。 「決めたわ」 「え?」 「私も、あなたの旅についていく。こんな面白いおもちゃ、放っておく手はないもの」 その口調はいつもの彼女に戻っていたが、その瞳の奥には、以前にはなかった微かな光が灯っていた。それは、背徳の果てに、ほんの少しだけ見出した、救済の光なのかもしれない。 「あなたのその純粋さが、この穢れた世界のどこまで通用するのか、この目で見届けてあげる。そしてもし、あなたが挫けそうになった時は……私が、あなたをもっと深い快楽の世界に引きずり込んであげるわ」 そう言って妖艶に微笑むリリスに、アルスはただ困ったように笑うしかなかった。 こうして、お人よしな聖職者と、じゃじゃ馬な元盗賊の二人旅に、背徳を纏う元巫女という、新たな仲間が加わった。 彼らの旅は、ますます混沌の様相を呈していくことになる。 第4章:幼き大魔女 三人になった旅は、さらに奇妙な均衡の上で成り立っていた。 フレイヤは相変わらずアルスの保護者として甲斐甲斐しく(そして口うるさく)世話を焼き、リリスはそんな二人を面白そうに眺めながら、アルスの純粋さを試すかのような際どい冗談を言ってはフレイヤに睨まれる、という光景が日常となった。 「ねえアルス、昨夜は良い夢、見られたかしら? 私が夢の中にお邪魔して、色々と『教えて』あげたかったのだけれど」 「リリス! あんた、この朴念仁に余計なこと吹き込むんじゃないよ!」 「ははは……昨夜はぐっすり眠れましたよ。あなたたちに神の祝福がありますように」 アルスの曇りのない笑顔を前にすると、二人の剣幕もどこか毒気を抜かれてしまう。この純真な聖職者は、まるで荒れ狂う二つの海流の間を悠々と進む小舟のようだった。 彼らが次なる目的地として目指したのは、「賢者の森」。その森の奥深くには、太古の魔法文明の遺跡が眠っていると言われ、「神々の言葉」に関する何らかの手がかりがあるかもしれない、というのがリリスの見立てだった。彼女は元巫女だけあって、古い伝承や歴史に詳しかったのだ。 賢者の森は、その名の通り、まるで意志を持っているかのような場所だった。天を突く巨木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い。奇妙な形をした植物が淡い光を放ち、空気は濃密な魔力の匂いで満ちていた。道らしい道はなく、少し進んだだけで方向感覚が狂わされる。 「……嫌な感じの森だね。空気が重い」フレイヤが警戒するように周囲を見回す。 「ええ。強力な結界が張られているわ。並の魔術師なら、一歩足を踏み入れただけで精神を焼かれるでしょうね」リリスもまた、表情を引き締めていた。 だが、アルスにはその結界の影響は全くないようだった。彼はむしろ、森の神秘的な雰囲気に心を奪われている。 「すごい……見てください、あのきのこ。七色に光っていますよ。まるで宝石のようだ」 「呑気なこと言ってる場合か! 大方、猛毒の幻覚きのこだろ、あれは!」 フレイヤが呆れて叫んだ、その時だった。 森の奥から、鈴を転がすような、しかしどこか冷たい響きを持った声が聞こえてきた。 「――そこな旅人たち。この先は、わらわの庭じゃ。穢れた足で踏み入ることは許さぬぞ」 声のした方を見ると、苔むした巨大な切り株の上に、一人の少女が腰掛けていた。 歳は十歳にも満たないだろうか。銀色の髪を二つに結い、豪奢なフリルのついた黒いドレスを着ている。その姿はまるで、森に迷い込んだ貴族の人形のようだった。しかし、その小さな身体から発せられる魔力の圧力は、リリスが今まで感じたこともないほどに強大で、肌をぴりぴりと刺す。 「……子供?」アルスが不思議そうに呟く。 「違うわ」リリスが低い声で制した。「アルス、フレイヤ、気を付けて。あれは、ただの子供じゃない。その魂の古さは、この森そのものと同じくらい……」 少女は、切り株からふわりと飛び降りると、無音で三人の前に着地した。その深紅の瞳が、品定めするように三人を順になめ回す。 「ふむ。盗人風情の小娘と、神に見捨てられた巫女崩れか。そして……」 少女の視線が、アルスの上でぴたりと止まった。 その瞬間、少女の瞳が驚愕に見開かれ、その小さな身体がわなわなと震えだした。 「おお……おお……! この魂の輝き……この清浄な気配……! まさか……まさか、このような場所で、再びお会いできるとは……!」 少女は感極まったように声を震わせ、その場にがくりと膝をつくと、アルスに向かって深々と頭を垂れた。そのあまりに芝居がかった仕草に、アルスたちは呆気にとられる。 「あ、あの……?」 「お初にお目にかかります、我が主よ!」少女は顔を上げ、その瞳を恍惚と潤ませながら叫んだ。「わらわはヘカテ! かつて大罪を犯し、この森で悠久の贖罪を続けていた者! ですが、それも今日まで! こうして再び、あなた様にお仕えできる日が来ようとは!」 「我が主……?」「ヘカテ……?」 アルスもフレイヤも、何が何だか分からない。リリスだけが、その名を聞いて息を呑んだ。 「ヘカテ……まさか、五百年前、大陸の半分を焦土に変えたと伝えられる伝説の大魔女……? でも、伝承では醜い老婆の姿だったはず……」 「ふん。あのような姿は、世を忍ぶための仮初めのものじゃ」ヘカテはすんと鼻を鳴らすと、立ち上がってアルスに駆け寄った。「それより主よ! よくぞご無事で! どれほどこの日を待ちわびたことか!」 彼女はアルスの腕にぎゅっと抱きつくと、その頬をすり寄せた。その姿は、長い間会えなかった親に甘える子供そのものだったが、相手が伝説の大魔女だと思うと、あまりにもシュールな光景だった。 「人違いです!」アルスは慌てて彼女を引き剥がそうとするが、ヘカテは見た目に似合わぬ力でしがみついて離れない。 「いいえ、人違いなどでは断じてありませぬ! その魂の形、色、匂い! 全てが、わらわがかつてお仕えしたあの方と寸分違わぬ! きっと、あなた様はあの方の転生したお姿に違いありませぬ!」 ヘカテの主張は、支離滅裂だった。だが、その瞳に宿る狂信的なまでの確信は、否定を許さない迫力に満ちている。 「主よ、お腹は空いておられませぬか? 喉は? お召し物は汚れておりますな、すぐにわらわが綺麗にして差し上げましょう! ああ、それにその仲間たち! 主の旅路に、このような品性の卑しい者たちが付き従っているなど、わらわは許しませぬぞ!」 ヘカテはアルスの世話を焼こうと甲斐甲斐しく動き回りながら、フレイヤとリリスに敵意むき出しの視線を送る。 「ちょっと、あんた! 誰が品性卑しいって!?」フレイヤが噛みつく。 「あらあら、これはこれは。おチビちゃん、嫉妬かしら? 可愛いわね」リリスが面白そうに煽る。 「黙れ、下賤の者どもが!」ヘカテが指を鳴らすと、フレイヤとリリスの足元の地面から蔓が伸び、二人の身体を瞬く間に拘束した。 「なっ!?」 「くっ……!」 二人がもがいても、魔力を帯びた蔓はびくともしない。 「さあ主よ、このような者たちとはお別れです。これからはこのわらわが、あなた様の全てをお守りし、お世話申し上げます。かつて、わらわが犯した過ち……あなた様を独りにしてしまった罪を、今度こそ償わせていただきますゆえ!」 ヘカテはうっとりとした表情でアルスを見上げる。彼女の過剰なまでの愛情と庇護欲は、もはや常軌を逸していた。それは母親のようであり、忠実な僕のようであり、そして獲物を見つけた捕食者のようでもあった。 「やめなさい、ヘカテ!」 アルスが、強い口調で言った。 その声に、ヘカテはびくりと身体を震わせる。 「彼女たちは、僕の大切な仲間です。彼女たちを侮辱することは、僕を侮辱することと同じだ。すぐに解きなさい」 アルスの琥珀色の瞳は、いつになく真剣な光を宿していた。その視線に射抜かれ、ヘカテはたじろいだ。主と信じる相手からの、初めての拒絶。その事実は、彼女に大きな衝撃を与えたようだった。 「……し、しかし、主よ……」 「解くのです」 アルスの揺るぎない声に、ヘカテはうなだれるしかなかった。彼女が渋々指を鳴らすと、蔓はするすると地面に消え、フレイヤとリリスは解放された。 「……主の、仰せのままに」 ヘカテは悔しそうに唇を噛み締めながらも、アルスの後ろにぴたりと付き従う。その姿は、叱られた子犬のようでもあった。 アルスは、そんな彼女に困ったように微笑みかけた。 「ありがとう、ヘカテ。君も、僕たちの旅に加わってくれませんか? 君のその大きな力、きっと多くの人を助けるために使えるはずです」 「……主が、そう仰るのであれば」ヘカテはぱあっと顔を輝かせた。「このヘカテ、生涯をかけてあなた様にお仕えいたしますぞ!」 こうして、聖職者と元盗賊、元巫女のパーティに、新たに「自称・主の忠実なる僕」であるロリババアの大魔女が加わることになった。 ヘカテの過剰なまでの干渉と世話焼きは、一行に新たな波乱を巻き起こす。彼女はアルスを「主」として崇拝するあまり、彼に近づく者すべてを敵視した。特に、フレイヤとリリスに対しては、事あるごとに牽制し、魔法を使った悪戯を仕掛けてくる。 「主のお食事に毒など盛っては困りますゆえ、まずはわらわが毒見を!」 「誰が盛るか、このチビババア!」 「あら、心配性なのね。でも、主への愛の深さなら、私の方が上ですわよ?」 「黙れ、巫女崩れが!」 アルスを中央に据えた、女たちの奇妙な共同戦線と、水面下の熾烈な主導権争い。 賢者の森の遺跡では、「神々の言葉」の手がかりは見つからなかった。だがアルスは、また一人、救いを求める魂に出会ってしまった。 彼の旅は、ますます騒がしく、そして危険なものとなっていくのだった。 第5章:西へ向かう船 元大魔女ヘカテが仲間に加わってからというもの、一行の旅はさらに奇妙な様相を呈していた。アルスを中心に、三人の女性たちがそれぞれ異なる形で彼に関わり、火花を散らす。 フレイヤは現実的な保護者としてアルスの身を案じ、リリスは彼の純粋さをからかいながらもその魂の在り方に惹かれ、ヘカテは彼を「主」と崇めて狂信的なまでの奉仕をしようとする。それはまるで、一つの惑星の周りを回る、性質の全く異なる三つの衛星のようだった。 「主よ、本日の寝床はこちらに。わらわが結界を張っておきましたゆえ、羽虫一匹近づけませぬぞ!」 「あら、過保護なのね。アルスはそんなに弱くないわよ。それより、たまには大人の女の腕枕で、安眠させてあげた方がよろしくて?」 「あんたたち、アルスをなんだと思ってるんだ! 少しは静かにさせろ!」 三人の女たちの言い争いを、アルスはいつものことだと困ったように笑いながら見ている。彼の底抜けのお人好しさは、この奇妙で危険な関係性の、唯一の緩衝材となっていた。 彼らはその後も西へ、西へと旅を続けた。道中、竜の骨が橋となっている渓谷を渡り、グリフィンが巣を作る断崖を越えた。様々な神話や伝説が、まるで安物の芝居の書き割りのように次々と現れては消えていく。 そんな旅のさなか、一行は古い図書館の廃墟で、ついに重要な手がかりを発見する。それは、古代エルフの言葉で記された一枚の羊皮紙だった。魔女として古代語にも通じているヘカテが、その解読にあたった。 「……ふむふむ。『世界のへそ、始まりの島。波に抱かれし聖なる骸、神々の言の葉、その内に眠る』……とありますな」 「世界のへそ、始まりの島……」リリスがその言葉を繰り返す。「それは、古代の海図に記されている伝説の島、『アララト』のことかもしれないわ。大陸の遥か西、誰もたどり着いたことのない『世界の果て』にあると言われているわ」 西の果て、海の彼方。 旅の目的地が、ついに明確になった。一行の間に、新たな決意と、微かな緊張感が走る。 「よし、決まりだな」フレイヤが腕を組む。「とにかく、西の海を目指すぞ。一番大きな港町は……ギブラルか」 ギブラル。 大陸の西端に位置する、最大の港湾都市。そこからならば、外洋に出るための大きな船が見つかるかもしれない。 目的地が決まったことで、旅はにわかに速度を増した。だが、ギブラルの港へと至る道は、最後の試練を用意していた。一行の眼前に広がったのは、灼熱の太陽が全てを白く焼き尽くす、『嘆きの砂漠』と呼ばれる広大な不毛地帯だった。古くからの言い伝えによれば、この砂漠はただ旅人の体力を奪うだけではない。その渇ききった大気は、人の心の奥底にある最も強い渇望を蜃気楼として映し出し、精神を蝕むのだという。 「……嫌な場所だね。空気がねっとりと肌に絡みつくようだ」フレイヤは眉をひそめ、額の汗を手の甲で拭った。 「ええ。強力な幻惑の魔力が満ちているわ。注意しないと、魂ごと持っていかれるわよ」リリスは舌なめずりをしながら、その退廃的な瞳を妖しく光らせた。まるで、その危険すらも楽しんでいるかのようだ。 砂漠に入って半日が過ぎた頃、異変は静かに始まった。 先陣を切って歩いていたはずのリリスが、ふと足を止めた。彼女の視線は、何もない空間の一点に釘付けになっている。 「あら……まあ……」 彼女の口から、恍惚としたため息が漏れた。その瞳には、他の者には見えない何かが映っているようだった。 「どうした、リリス?」アルスが声をかけるが、彼女の耳には届いていない。 「見て……アルス。なんて……なんて素晴らしい神殿……」 彼女の瞳に映るのは、月光を模した柔らかな光に満たされた、白亜の神殿だった。そこでは、かつて彼女が仕えた厳格な神ではなく、彼女自身の欲望を肯定するためだけに存在する、無数の美しい男性神官たちが傅いている。彼らはリリスを「聖女様」「我らが女神」と呼び、跪いてその足元に口づけた。 『おお、聖女リリス。あなたは、愛ゆえに罪を犯された。その愛の深さこそ、我らが信仰する唯一の教義』 『あなたの背徳は、何より気高き信仰の証。さあ、こちらへ。この神殿は、あなたの全てを肯定するためにあるのです』 神官たちの囁きは、彼女が心の奥底でずっと求めていた、甘美な赦しの言葉だった。神に、男に、世界に裏切られ、自ら汚れ堕ちることでしか愛を証明できなかった彼女にとって、その背徳そのものを「聖なるもの」として崇拝されること。それ以上の快楽は、存在しなかった。 彼女はふらふらと、何かに誘われるように歩き出した。その先には、何もない。ただ、陽炎が揺らめいているだけだ。 「リリス! 待て!」フレイヤが止めようとするが、リリスは幻の神殿に夢中で、その声に耳を貸そうともしない。彼女はくすくすと笑いながら、あっという間に砂丘の向こうへと消えてしまった。 「……チッ、一番厄介な夢に捕まりやがって……」フレイヤが吐き捨てた、その時だった。今度は、アルスの隣を歩いていたヘカテの足が止まった。 「……嘘……」ヘカテは、わなわなと震え始めた。その深紅の瞳が、涙で潤んでいく。「そんな……はずは……」 彼女が見つめる先には、蜃気楼が揺らめき、緑豊かな渓谷と、白壁の美しい街並みが映し出されていた。五百年前、彼女自身がその手で焼き尽くしたはずの、故郷の村だった。 幻の村では、かつて彼女が守れなかった人々が、全員、笑顔で暮らしている。そして、その中心にいる彼女に、村人たちは憧れと尊敬の眼差しを向けていた。子供たちが駆け寄り、その袖を引く。 『ヘカテはすごい! 私たちの英雄だ!』 『お前がいてくれるから、この村は安心だ』 それは、彼女が心の奥底で最も渇望していた光景だった。自らの強大な力が、誰かを傷つける破壊の象徴ではなく、皆を守り、愛されるための、祝福された力として受け入れられる世界。そのあまりにも甘く、心地よい夢の世界が、彼女を強く手招きしていた。 「……わらわは……わらわは、帰って来たのか……? 長い……長い夢から覚めて……」 彼女もまた、幻影に引き寄せられるように、ふらふらと歩き出す。今度こそ、この罪を償えるかもしれないという、抗いがたい希望に満たされて。 「ヘカテ! それも幻だ!」フレイヤが叫ぶが、ヘカテは涙を流しながら幻の故郷へと駆け寄り、その姿もまた蜃気楼の中へと溶けるように消えた。 「くそっ、どいつもこいつも!」 フレイヤは一人、悪態をついた。残されたのは、自分と、この状況をただ悲しげな目で見つめているアルスだけだ。 そのフレイヤの目の前にも、幻は現れた。目の前に、金貨がたわわに実る巨大な樹木が生え、その木陰では、何不自由ない穏やかな生活が約束されている。貧しい路地裏で育った彼女にとって、それは確かに魅力的な光景だった。 だが、フレイヤは唇を噛み締め、首を振った。 「……こんなもので、腹は膨れても、心は満たされない。こんなもので……あいつを守れるか!」 彼女は、背後のアルスをちらりと見た。その頼りないが、どこまでも真っ直ぐな瞳。彼を守るという現実的な使命感が、彼女を幻惑から引き戻した。 「アルス、あんたは大丈夫なのか」 「ええ……僕には、何も見えません。ただ、悲しいものがたくさん見えるだけです」 アルスの純粋すぎる魂には、欲望を映し出す蜃気楼は効かないようだった。彼の瞳にはただ、仲間たちが囚われてしまった、心の闇だけが見えている。 「チッ。役立たずなんだか、凄いんだか分からんな」フレイヤはそう言うと、懐から古びた一本の短剣を取り出した。「これは、昔盗んだ『破魔の短剣』だ。邪な魔力の源を探る力がある。この砂漠のどこかに、幻を見せている大元があるはずだ。私があれを叩き壊す。あんたは、どうにかしてあの二人を連れ戻せ!」 フレイヤは短剣を構えた。その刃先は、かすかな光を放ちながら、砂漠の一点を指し示している。彼女はその方角へ、迷わず駆け出した。 一人残されたアルスは、仲間たちが消えた方角を見つめ、静かに祈りを捧げ始めた。彼の声は、熱い風に乗って、砂漠に響き渡る。 「……リリス、ヘカテ。聞こえますか。あなたの渇きは、幻では癒せません。あなたの罪は、幻では償えません。戻ってくるのです。僕たちの現実に」 その頃、幻の神殿で神官たちに傅かれ、恍惚の表情を浮かべていたリリスの耳に、アルスの声が届いた。その声は、どんな甘美な赦しの言葉よりも、彼女の魂の芯を震わせた。 「……アルス……?」 彼女が顔を上げると、豪華な神殿は色褪せ、彼女を崇拝していた神官たちの顔から、一瞬だけ、その敬虔な表情が剥がれ落ちた。その下に現れたのは、彼女を侮蔑し、裁こうとするかのような、氷のように冷たい審問官の目だった。悪夢の入り口が、すぐそこに開いていた。 同じように、故郷の幻で英雄として迎えられていたヘカテも、その声を聞いた。 「……主……?」 彼女が振り返ると、村人たちの優しい笑顔は崩れ落ち、その姿は、彼女の力の暴走に巻き込まれて死んだ者たちの、恨みの形相を浮かべた亡霊へと一変していた。「お前さえいなければ……」声にならない声が、彼女の罪悪感を直接抉った。甘美な夢は、最も恐れていた悪夢そのものへと反転したのだ。 二人は、同時に悲鳴を上げた。 その瞬間、砂漠の彼方で、大きな爆発音が響き渡った。フレイヤが、幻惑の源である巨大な『幻惑の妖石』を、破魔の短剣で突き砕いたのだ。 妖石が砕け散ると同時に、砂漠を覆っていた蜃気楼は、まるで幕が下りるように消え失せた。後に残されたのは、我に返って呆然と立ち尽くすリリスとヘカテの姿だった。 やがて、三人はアルスの元へと戻ってきた。リリスとヘカテは、自分の心の弱さを晒してしまった気まずさから、俯いて何も言えない。 そんな彼女たちに、アルスはただ優しく微笑みかけた。 「おかえりなさい。さあ、行きましょう。僕たちの旅は、まだ始まったばかりです」 この一件を経て、一行の奇妙な絆は、より一層複雑なものとなった。フレイヤはアルスの精神的な強さを再認識し、守るべき対象としてだけでなく、どこか畏敬の念を抱き始めた。リリスとヘカテは、アルスの言葉が自分たちを悪夢から救い出したという事実に、彼への執着をより深いものへと変えていった。 アルスという絶対的な善性がなければ、自分たちは容易く崩壊してしまう。その事実を、三人は痛感したのだ。 一行は一直線に西を目指す。これまでのどこか呑気な旅とは違い、明確な目標が彼らの足取りを力強くさせていた。 道中、アルスは夜ごと、仲間たちのために祈りを捧げた。 口は悪いが、誰よりも優しく自分を守ってくれるフレイヤ。 退廃的な振る舞いの裏に、深い悲しみを隠しているリリス。 歪んだ形ではあるが、純粋な忠誠心で自分に仕えようとするヘカテ。 全く異なる場所で、全く異なる人生を歩んできた彼女たちが、今、自分という存在を介して、共に同じ道を歩んでいる。その事実が、アルスの胸を温かく満たしていた。彼は、この奇妙で騒がしい旅を、心の底から愛おしいと感じていた。 「神よ、どうか彼女たちをお守りください。僕たちは、必ずや『言葉』を見つけ出し、この世界に再び光を取り戻します」 そして、旅立ちから数ヶ月が過ぎた頃。 一行の目の前に、ついに潮の香りと、巨大な街の影が見えてきた。 ギブラルの港は、活気に満ち溢れていた。様々な国の様式の船が、巨大な獣のように港に身を寄せ合い、マストの森が空を覆っている。荷を降ろす船員たちの威勢の良い掛け声、新しい航海の仲間を募る船長たちの怒声、そしてカモメの鳴き声が混じり合い、力強い交響曲となって響き渡っていた。 一行は、その圧倒的な光景にしばらく言葉を失う。 修道院しか知らなかったアルスにとって、それは世界の広さを改めて実感させる光景だった。 貧民街で育ったフレイヤにとって、それは富と機会の象徴だった。 神殿という閉鎖社会にいたリリスにとって、それは未知なる自由の匂いだった。 そして、森に引きこもっていたヘカテにとっては、人間という種の持つ、矮小で、しかし逞しいエネルギーの奔流だった。 「すごい……」アルスが感嘆の声を漏らす。 「ああ。ここから、新しい旅が始まるんだな」フレイヤがその横で呟いた。彼女の瞳には、不安と、それを上回る期待の光が揺れていた。 賑やかで、どこかちぐはぐだった彼らの大陸での珍道中は、ここで終わりを告げる。 彼らはまだ知らない。この港での出会いが、彼らの運命を、そしてこの世界の運命すらも、大きく歪めていくことになるということを。 彼らの関係性を根底から覆す、圧倒的なカリスマを持つ男。 欲望と信仰をその身に宿し、新世界を目指す提督。 彼との出会いが、すぐそこに迫っている。 今はまだ、誰もが希望に満ちていた。 偽りの巡礼団は、海の彼方に眠るという「神々の言葉」を信じ、次なる舞台へと歩を進める。 明るく賑やかだった旅の第一幕は、ここで静かに幕を下ろす。 そして、これから始まるのは、背徳と欲望が渦巻く、呪われた航海の物語。 ■第二部【破】背徳のノアの方舟 第6章:新世界の提督 ギブラルの港は、一つの熱狂に包まれていた。 人々が噂しているのは、一人の男の名前。そして、彼が成し遂げようとしている前代未聞の偉業についてだった。 「聞いたか? ノアム提督が、ついに船団を出すらしいぞ」 「新天地を目指すっていう、あの?」 「ああ。神の啓示を受けたんだとよ。海の向こうには、罪に汚れていない、乳と蜜の流れる約束の地があるんだとさ」 酒場で、市場で、路地裏で、その名は囁き交わされていた。ノアム。数年前にどこからともなく現れ、その圧倒的な弁舌とカリスマ性で瞬く間に多くの信奉者を集めた男。彼は自らを「神の意志を代行する者」と称し、腐敗したこの旧世界を捨て、海の彼方にあるという「新天地」への移住を人々に説いていた。 その計画は、あまりにも壮大で、あまりにも荒唐無稽だった。だが、日々の暮らしに疲れ、未来に希望を見出せない人々にとって、彼の言葉は抗いがたい魅力を持っていた。彼の元には、財産を投げ打ってでも船団に加わろうとする者たちが、大陸中から集まってきていた。 アルス一行がギブラルに到着した日、奇しくもノアム提督が港の広場で大々的な演説を行う日だった。好奇心に引かれたフレイヤと、何かを感じ取ったリリスに促され、アルスたちも人垣の後ろからその様子を眺めることになった。 やがて、広場に設えられた壇上に、一人の男が姿を現した。その瞬間、嵐のような歓声が巻き起こる。 男は、四十代半ばだろうか。日に焼けた肌に、鍛え上げられた鋼のような肉体。猛禽を思わせる鋭い眼光と、鷲のような高い鼻。白と金を基調とした豪奢な提督の制服を身にまとい、その立ち姿は、ただそこにいるだけで周囲を圧倒するような、凄まじい存在感を放っていた。 彼こそが、ノアム提督だった。 ノアムはゆっくりと両腕を広げ、歓声を鎮めた。その静かな仕草一つに、人々を支配する絶対的な自信が満ち溢れている。 「同胞たちよ!」 彼の声は、決して大声ではない。しかし、奇妙なほどによく通り、広場の隅々にまで染み渡っていく。それは、聴く者の魂に直接語りかけるような、不可思議な力を持った声だった。 「我らは苦しんできた。我らは耐えてきた。王侯貴族の圧政に、終わりのない戦に、そして、神に見捨てられたこの世界の不条理に! だが、その苦難の日々も、もはや終わりだ!」 ノアムの言葉に、聴衆が息を呑む。 「天上の主は、我らを見捨ててはいなかった! 主は私に語られたのだ! 海の彼方に、我らのために新たな揺り籠を用意した、と! そこには争いも、貧しさも、病もない。神の愛に満ちた、真なる楽園だ!」 彼の言葉は、もはや演説ではなかった。それは神託であり、預言だった。人々は恍惚とした表情でその言葉に聴き入り、ある者は涙を流し、ある者は天に祈りを捧げている。その光景は、宗教的な熱狂そのものだった。 「……かつて、私のこの理想を嘲笑った愚かな者たちがいた」ノアムは、ふと遠い目をして呟いた。「彼らは、安穏とした偽りの平和に浸り、真の救済から目を背けた。だが、もはや彼らの声は届かない。神は、理解する者だけを愛されるのだ!」 その一節は、民衆には旧世界の権力者への批判と聞こえただろう。だが、彼の瞳の奥には、個人的な無理解への怨念が、昏い炎のように一瞬だけ揺らめいていた。 「……胡散臭い」フレイヤが吐き捨てるように言った。「新天地だか楽園だか知らないが、うまい話には裏がある。あの男、目が笑ってない」 「ええ……」リリスもまた、警戒に満ちた声で同意する。「あの男、信仰を語る口で、欲望を啜っているわ。あの瞳の奥にあるのは、神への愛じゃない。神の名を騙って、世界そのものを手に入れようとする、底なしの渇望よ」 ヘカテもまた、不快そうに顔をしかめていた。 「……気に入らぬ。あの男から、主と同じ匂いがする。だが、主の輝きが太陽であるなら、あの男のは、ただ全てを焼き尽くすだけの黒い太陽じゃ」 三人の女性たちが一様に警戒心を抱く中、アルスだけは、違うものを見ていた。 彼は、ノアムの言葉そのものではなく、その言葉に熱狂する人々の顔を見ていた。疲れ果て、何かにすがりたいと願う、弱い人々の顔。その瞳に、ほんの一瞬でも希望の光が灯るのなら。 「……素晴らしい」アルスが、ぽつりと呟いた。 「はあ!?」フレイヤが信じられないという顔で振り返る。 「アルス、あなた正気?」リリスも眉をひそめる。 「あの人の言葉が真実かどうかは、僕には分かりません」アルスは、壇上のノアムを見つめながら言った。「でも、あの人は、大勢の人々に希望を与えている。それだけは、紛れもない事実です。僕がやろうとしていることと、同じだ」 アルスの純粋な瞳には、ノアムの掲げる理想の輝きだけが映っていた。その瞳には、彼の奥に渦巻く黒い野心も、人々を扇動する危険な狂気も、見えていない。 演説が終わり、熱狂が渦巻く中、アルスは意を決して人垣をかき分け、壇上から降りてきたノアムの元へと向かった。 「アルス、待て!」フレイヤの制止も聞かない。 「ノアム提督!」 アルスは、屈強な護衛たちに囲まれたノアムの前に立った。護衛の一人がアルスを突き飛ばそうとするのを、ノアムが手で制した。 「……なんだ、お前は。聖職者か」 ノアムの鋭い目が、アルスを頭のてっぺんから爪先まで、品定めするように見下ろす。その視線は、まるで魂の値段を計るかのように冷徹だった。 「僕はアルスと申します」アルスは臆することなく、深く頭を下げた。「提督のお話、拝聴いたしました。感銘を受けました。僕もまた、神の御言葉を探し、この世界に光を取り戻すために旅をしている者です」 「ほう、『神の言葉』、か」ノアムの唇に、薄い笑みが浮かんだ。「面白いことを言う。神は言葉ではなく、啓示をもって我らを導くのだ。言葉などに縋るのは、信仰の足りぬ者のすることだぞ」 その言葉は、アルスの旅そのものを否定するような響きを持っていた。しかしアルスは、ひるまなかった。 「僕たちの目指す場所は、同じだと信じています。僕たちを、あなたの船に乗せてはいただけないでしょうか。僕たちは、『世界の果て』にあるというアララト島を目指しているのです」 「アララト……」ノアムはその名を呟き、しばし何かを考えるように黙り込んだ。彼の瞳の奥で、計算高い光がまたたく。 やがて彼は、にこりと人の悪い笑みを浮かべた。それは、獲物を見つけた狩人の笑みだった。 「よかろう」 ノアムはアルスの肩を、親しげに、しかし力強く叩いた。 「神を求める若者の、純粋な願いを無下にはできん。お前たちも、我ら『新世界の船団』の一員として迎え入れよう。共に、神の示された楽園を目指そうではないか」 その言葉に、周囲の信奉者たちから歓声が上がる。アルスは、顔を輝かせた。 「ありがとうございます、提督! あなたに神の御加護を!」 「ああ。神は、常に我と共にある」 ノアムはそう言って笑った。その笑顔は、どこまでも自信に満ち、慈愛に溢れているように見えた。 だが、その時、アルスの背後で一部始終を見ていたフレイヤは、確かに見た。 アルスに笑いかけるノアムの瞳の奥で、一瞬だけ燃え上がった、昏い炎を。 それは、純粋で無垢な魂を、己の野心のためにどう利用してやろうかと算段する、捕食者の冷たい光だった。 フレイヤの背筋を、冷たいものが走り抜ける。 リリスとヘカテもまた、同じものを感じていた。 この男は、危険だ。 アルスの純粋さは、この男の前ではあまりにも無力で、あまりにも危うい。 しかし、アルス本人は、そんな仲間たちの危惧に全く気づいていない。彼はただ、旅の最大の難関と思われた渡航の手段を得られたことに、そして同じ理想を掲げる(と彼が信じている)指導者に出会えたことに、無邪気な喜びを感じているだけだった。 数日後。 一行は、ノアムの船団の旗艦である「アーク・ノヴァ」号に、客分として乗り込むことになった。 巨大な船が、希望と欲望を詰め込み、ギブラルの港をゆっくりと離れていく。 賑やかだった旅は終わり、閉鎖された船という舞台の上で、新たな物語が始まろうとしていた。 それは、逃れられない運命の始まり。 一人の男の狂気が、四人の関係性を歪め、背徳と絶望の海へと引きずり込んでいく、破滅への航海の始まりだった。 第7章:支配者の調教 船団がギブラルを出航して、十日が過ぎた。 アーク・ノヴァ号は、他の随伴船を従え、大海原を女王のように滑り進んでいく。どこまでも続く青い水平線と、単調な波の音。閉ざされた船上での生活は、人々の心を少しずつ蝕んでいく。些細なことで諍いが起き、未来への期待は日増しに不安へと変わっていった。 そんな船内の不穏な空気を、ノアムは巧みに支配していた。 彼は毎日定刻になると甲板に現れ、力強い言葉で乗員たちを鼓舞した。彼の言葉は麻薬のように人々の不安を鎮め、再び狂信的な熱狂を呼び起こす。彼は船員たちの食料や水を厳格に管理し、わずかな配給でさえも、あたかも神の恩寵であるかのように与えた。人々は彼に感謝し、その支配を疑うことをやめていった。船は、ノアムを唯一神とする、海に浮かぶ小さな宗教国家と化していた。 アルスは、そんなノアムのやり方に疑問を感じながらも、彼の持つカリスマ性と、人々をまとめ上げる手腕に感嘆していた。 「提督は、厳しい方だ。でも、あれくらいでなければ、この大人数を率いることはできないのかもしれないな」 そんな呑気なことを言うアルスに、フレイヤは苛立ちを隠せない。 「あんたは分かってない! あれは支配だ! 希望をちらつかせて、人の心を縛り付けてるだけじゃないか!」 だが、そんなフレイヤの警告も、今のアルスには届かなかった。 そして、ノアムの黒い本性が、ついに牙を剥き始める。 彼の最初の標的は、リリスだった。 ノアムは、ギブラルの広場で初めて彼女を見た時から、その魂の歪さに気づいていた。彼の言葉に熱狂する群衆の中で、リリスだけが冷ややかに、それでいて挑むような、値踏みするような視線を自分に向けていた。そして、アルスという純粋な存在の隣に立ちながら、無意識に自分の首筋をなぞる仕草。それは、かつて戒律の証である装身具を身に着けていた者の、消えない癖。聖と俗、その両極に引き裂かれた魂が放つ、甘美で腐臭にも似た匂いを、彼は見逃さなかった。 ある夜、ノアムはリリスを「二人で星を見ないか」と、提督室に併設された私的な船尾楼(スターン・ギャラリー)へと呼び出した。 そこは、船の最上級の区画だった。壁には異国のタペストリーが飾られ、床には豪華な絨毯が敷かれている。窓の外には、月光を浴びて銀色に輝く大海原が広がっていた。 「美しい夜だろう」ノアムは上質な葡萄酒のグラスを片手に、窓の外を見つめていた。「だが、どんな美しい景色も、一人で見ては虚しいだけだ」 彼は振り返り、リリスを値踏みするような視線で射抜いた。 「お前も、そうは思わないか? 聖なる場所から追われた魂は、常に渇いている」 その言葉に、リリスの表情が凍りついた。彼女は警戒しながらも、その挑発に乗るように、しなやかな足取りで彼に近づいた。 「……私の何をご存知だと?」 「お前のような女のことは、手に取るように分かる」ノアムは嘲るように笑った。「神に仕え、その純潔を誇りながら、心の奥では誰よりも冒涜的な快楽を求めている。聖と俗、その両極で引き裂かれる魂。その痛みこそが、お前の存在理由そのものだ」 彼の言葉は、リリスの心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉り出した。誰も理解できなかった、彼女自身の矛盾と苦悩。それを、目の前の男は、いとも容易く看破してみせた。 「あなたは……なぜそれを……」リリスの声が震える。 「聖職者と恋に落ち、全てを失った……そうだな?」 ノアムはカマをかけた。リリスの目が見開かれ、動揺が全身に走る。核心を突かれた彼女は、もはや反論する気力もなかった。 「お前は、罰を求めている」ノアムは悪魔のように囁いた。「お前を救えなかった神や男ではない。お前自身を汚し、貶め、魂ごと蹂躙してくれる絶対的な支配者を、ずっと探し続けていた。その汚れた身体で清らかなアルスの隣に立つことで、お前の渇きは満たされるか? 違うだろう。あれは眩しすぎる。お前の闇を照らしはするが、決して理解はしない。お前の罪を許しはするが、決して罰しはしない。だからお前は、もっと渇くのだ。違うか?」 リリスは息を呑んだ。彼の瞳は、全てを見透かす底なしの闇のようだった。彼女がソドムの街で繰り返してきた退廃的な日々は、全てがこの男の言う通り、罰への渇望、支配されることへの倒錯した願望の表れだったのだ。 「いいだろう」ノアムは、その細い顎を骨が軋むほど強く掴み、無理やり上向かせた。「俺が、お前に罰を与えてやろう。お前がずっと求め続けてきた、魂の震えるような悦びを、この身体に刻み込んでやる」 彼はリリスのドレスの肩紐に指をかけると、引きちぎるようにして肌蹴させた。露わになった白い肩に、彼は牙を立てるように強く噛みついた。 「んっ……!」 鋭い痛みが走り、リリスの身体が強張る。だが、その痛みの後から、まるで灼熱の鉄を押し当てられたかのような、痺れるような快感が背筋を駆け上がった。 「くふっ……」ノアムは彼女の耳元で低く笑った。「良い声だ。やはり、お前の魂は痛みで歌うらしい。もっと啼かせてやろう」 彼はリリスを豪奢な長椅子へと組み敷き、その身体を貪るように味わい始めた。彼の愛撫には、優しさなどかけらもない。それは、所有物に対する権利の主張であり、魂の奥深くまで焼き印を押すかのような、一方的な陵辱だった。リリスの抵抗を嘲笑うかのように、ドレスは胸元から腹まで一直線に引き裂かれ、絹が裂ける乾いた音が、むせ返るような背徳の調べとなる。 リリスは抵抗しようとした。アルスの顔が脳裏をよぎる。あの純粋な魂に触れ、少しだけ癒されかけていた心の傷が、再びこじ開けられていく。 「……や……め……」 か細い抵抗の言葉は、彼の執拗な愛撫の前に霧散する。ノアムの冷たい指は、彼女が辱めを受けたと感じる場所を正確に、そして粘り強く責め立てた。憎しみと屈辱に抗おうとすればするほど、彼女の身体は、その支配に悦びを感じてしまう。 「あ……ぁん……っ、く……」 抗議の声は、いつしか甘く湿った喘ぎへと変わっていた。ノアムは彼女の太腿を力ずくで押し開き、その秘められた湿地に指を滑り込ませる。びくりと跳ねる身体。彼女の内側は、屈辱と興奮で、すでに熱く濡れていた。 「どうした? もっと欲しいのだろう?」 ノアムは、その濡れた指先を彼女の唇に押し付けた。リリスは、目を固く閉じ、その屈辱的な行為を受け入れる。自分の身体から生まれた蜜の味は、紛れもない背徳の味がした。 「ほら、正直な身体だ。お前も、俺と同じだ。聖者の仮面の下で、どうしようもなく汚れた獣を飼っている」 その言葉は、呪いのようにリリスの魂に染み込んでいく。 そうだ、誰も私を救ってはくれなかった。アルスの優しさでさえ、私のこの深い闇を照らすことはできない。この闇を理解し、支配してくれるのは、この男だけだ。 思考が、快楽に溶かされていく。彼の指は一本から二本へと増え、粘膜を押し広げるように、そして一番の敏感な場所を探り当てるように、いやらしく蠢く。 「ひゃっ……! ん、ぅ……そ、そこは……っ」 「ここか? ここが気持ちいいのか?」 ノアムは意地の悪く笑い、その一点を執拗にこすり上げた。リリスは腰を震わせ、逃れようとするが、彼の巨体に押さえつけられて身動きが取れない。快感と屈辱の波が、彼女の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。 「あ、あぁん……っ、だめ、そんな……っ! ぴゃっ……!」 指の動きがさらに激しくなり、リリスの身体が大きく弓なりに反った。熱い痙攣が下腹から全身へと広がり、最初の絶頂が彼女を打ちのめす。全身から力が抜け、ぐったりとした彼女を見下ろし、ノアムは満足げに唇を舐めた。 「さあ、これからが本番だ」 彼は自らの衣服を寛げると、すでに怒張しきった自身の欲望を露わにした。それは、彼の支配欲そのものを体現したかのような、黒々とした熱を放つ凶器だった。リリスは息を呑み、恐怖と、そして抗いがたい期待に身体を震わせた。 もはや、彼女に抵抗の意思はなかった。その目に宿るのは、これから与えられるであろう、至高の罰への期待と恍惚だけだ。彼女は自らノアムの首に腕を回し、その支配を、その罰を、待ち望んだ生贄のように受け入れた。ノアムは、そんな彼女の服従を確認すると、まるで生贄を捧げる神官のように、自らの熱く硬い欲望の先端を、抵抗をなくした聖域の入り口に押し当て、ゆっくりと、しかし容赦なく沈めていった。 「ひっ……あ、あぁっ……! んんっ……!」 粘膜が押し広げられ、内側から満たされる、暴力的なまでの充足感。痛みと快楽の境目がなくなり、思考が真っ白に塗りつぶされていく。彼女の身体は、彼の打突のたびに大きく揺さぶられ、喘ぎ声はもはや言葉の形をなさなかった。それは、魂が屈服する音だった。長椅子に張られたビロードの生地を掴む指先が白くなり、脚が彼の腰に絡みつく。 「ほら、お前が欲しがった罰だ。俺の全てで満たしてやる。啼け、リリス。俺に支配される悦びを、その声で証明してみせろ」 彼の言葉に煽られ、リリスの口から、より淫らな喘ぎが溢れ出す。 「はぁっ、はぁ…っ! あぁん…っ、ノアム、さま……! もっと……! もっと、あなたの、もので……わたしの、おくを……めちゃくちゃに、してぇ……っ!」 もはや羞恥心はなかった。アルスの純粋な世界では決して許されなかった、汚らわしい欲望の言葉が、堰を切ったように溢れ出てくる。 「そうだ、それでいい」ノアムは彼女の髪を掴み、その耳元で囁いた。「お前は、俺に支配されるために生まれてきた女なのだ。神も、お前が愛した男も、お前を救えはしなかった。だが、俺は違う。俺だけが、お前の渇きを癒してやれる」 ノアムは獣のように腰を打ち付け、そのたびにリリスは甲高い喘ぎを漏らした。長椅子の脚が、激しい律動に合わせて床に不協和音を立てる。熟した彼女の子宮口に、彼の欲望の先端が何度も何度も叩きつけられ、そのたびに痺れるような快感が脳髄を焼いた。 「あ、あ、あぁッ! いっちゃう、また……いかされるぅ……!」 彼女の身体が再び大きく痙攣し、二度目の絶頂の波が訪れる。その弛緩した身体の奥深くに、ノアムは自らの支配の証を、熱い奔流となって注ぎ込んだ。 どく、どく、と、彼の生命そのものが、彼女の胎内に注がれていく。それは、彼女が今まで経験したどんな男のものとも比較にならないほど濃密で、魂の芯まで痺れさせる、どろりとした熱い媚薬のようだった。どんな酒よりも濃厚で、頭が蕩けてしまいそうな獣じみた匂いが、リリスの思考を完全に麻痺させる。その圧倒的な量が、彼女の空虚だった子宮を溢れさせ、その内壁の隅々まで、ねっとりと重く塗りつぶしていく。彼女は、自らの内側が、憎むべき、しかし誰よりも愛おしい男の存在そのもので満たされていく、その背徳的な充足感に、魂の髄から打ち震えた。 行為を終え、ぐったりと横たわるリリスに、ノアムは冷たく命じた。 「まだ終わりではないぞ。俺を、清めろ」 その言葉の意味を即座に理解したリリスは、はっと顔を上げた。その瞳には、一瞬の戸惑いと、それをすぐに上回る、恍惚とした服従の色が浮かんだ。 彼女は長椅子から這い降りると、彼の足元に跪いた。そして、まだ熱を帯びた彼の欲望の残滓を、その唇で敬虔に受け入れた。舌先で丁寧に慰め、最後の一滴まで味わい尽くす。それは、神に全てを捧げた巫女が行う、最後の奉仕の儀式だった。 「……ん……く……」 彼女の喉が、彼のものを飲み込む音だけが、静かな船尾楼に響いていた。 その夜を境に、リリスは変わった。 彼女はノアムの忠実な愛玩物となり、常に彼の傍らに侍るようになった。その瞳から、以前の退廃的な憂いは消え、代わりに、支配されることに悦びを見出した者の、狂信的な光が宿っていた。 彼女はアルスたちと会っても、ほとんど口を利かなくなった。ただ、時折アルスに向けるその視線には、憐れみと、そして選ばれなかった者への、微かな侮蔑の色が浮かんでいた。 「リリス……どうしてしまったんだ」アルスは彼女の変貌に心を痛めた。 「あの男に、何かされたに決まってる!」フレイヤは怒りに震えた。 フレイヤはリリスに問いただそうとしたが、彼女はただ冷たく微笑むだけだった。 「あなたたちには、分からないわ。ノアム様が与えてくださる、この魂の充足は」 その瞳は、もはや以前のリリスのものではなかった。 一行の関係性に、最初の、そして決定的な亀裂が入った。 アルスの純粋な理想も、フレイヤの現実的な警告も、ノアムという巨大な狂気の前では、あまりにも無力だった。 その変化は、船内の他の乗員たちとの関係にも、影を落とし始めた。 翌日、アルスとフレイヤが共有の食堂へ向かうと、いつもと空気が違うことに気づいた。陽気な船乗りたちの歌声は消え、彼らがテーブルに着くと、周囲の話し声がぴたりと止む。誰もが、値踏みするような、あるいは敵意を孕んだ視線を、遠巻きに彼らへと向けていた。 「……なんだよ、こいつら」フレイヤが小声で悪態をつく。 アルスは、そんな刺々しい空気の中心にいるリリスの姿を見つけた。彼女は、提督であるノアムの隣に座り、まるで女王のように振る舞っている。その周りには、取り巻きの乗員たちが媚びへつらうように集まっていた。 アルスが、助けを求めるように彼女に視線を送る。だが、リリスはそれに気づきながらも、フンと鼻を鳴らし、わざとらしく顔を背けた。その侮蔑的な態度を見た周りの乗員たちから、くすくすという嘲笑が漏れる。 「提督のお考えに逆らうような偽善者は、この船には不要だ」 「リリス様のように、早く提督の偉大さに気づけばよいものを」 そんな囁き声が、アルスの耳に突き刺さる。彼は、自分が歓迎されざる客であり、理解されない異端者なのだという事実を、初めてはっきりと突きつけられた。 彼の純粋な善意と理想は、この閉鎖された世界では、ただの「異物」でしかなかった。胸の奥に、冷たくて重い石が沈んでいくような、初めての孤独感。アルスは、ただ俯いて、配給された硬いパンを無言でかじることしかできなかった。 船は進む。 背徳の悦びに堕ちた聖女を一人、その腕に抱いて。 支配者は、次なる獲物へと、その冷徹な視線を向けていた。 その視線の先には、アルスに歪んだ母性を向ける、幼き大魔女の姿があった。 第8章:大罪の肯定者 リリスがノアムの寵愛を受けるようになってから、船内の空気はさらに歪んだものになった。彼女はノアムの代弁者として、時に彼の意に沿わない乗員を密告し、罰を与える側に回った。かつての仲間であったアルスやフレイヤに対しても、その態度は冷ややかで、まるで別人のようだった。 この状況に、最も苛立ちを募らせていたのはヘカテだった。 彼女にとって、アルスこそが唯一絶対の「主」である。その主が信頼を寄せているノアムという男に、彼女は当初から言い知れぬ不快感を抱いていた。そして今、その男がリリスを籠絡し、主の周りから仲間を一人奪い去った。これは、彼女の忠誠心に対する明確な挑戦であり、許しがたい侵害だった。 ヘカテの世界は、徹頭徹尾、主であるアルスを中心に回っている。彼女の認識の中では、この船はノアムのものではない。主がその尊き足を踏み入れた瞬間から、このアーク・ノヴァ号は「主の船」へと聖別されたのだ。所有権などという俗世の些事は、彼女の価値観の中では塵芥ほどの意味も持たない。主が存在する場所こそが世界の中心であり、それ以外の者は全て、主の領域に「お邪魔している」に過ぎないのだ。 「あの男……主の船に乗り込んでおきながら、なんと不遜な! わらわが少し懲らしめてくれるわ!」 その錯誤した認識こそが、彼女の狂信の証だった。ヘカテは得意の魔術でノアムに一泡吹かせようと、彼の食事にこっそり下剤を盛ったり、彼の私室に幻覚を見せる呪いをかけたりと、様々な悪戯を仕掛けた。だが、その全てが、まるで効果がなかった。食事は毒見役が先に口にし、呪いはノアム自身の持つ強靭な精神力によって弾き返されてしまう。 「くっ……なぜ効かぬのじゃ……!」 焦りと苛立ちを募らせるヘカテの様子を、ノアムは全て見抜いていた。彼は、ヘカテがアルスに向ける過剰なまでの母性と、他者に見せる子供らしからぬ冷徹さのギャップに、早くから気づいていた。そして、彼女が時折見せる、まるで五百年を生きた老婆のような、全てを諦観した虚無の目。彼女の魔法が悪戯の範疇を超えず、どこか「何かを守ろうとする」性質を帯びていること。これらの観察から、彼は「この魔女は、過去に何かを守ろうとして失敗し、世界を揺るがすほどの大罪を犯したのだ」と仮説を立てていた。 その夜、ヘカテは一人、月明かりの甲板でアルスのために結界の維持に魔力を注いでいた。彼女の「主」が安眠できるよう、毎晩欠かさず行っている日課だ。その背後から、静かな足音が近づいてきた。 「見事な魔力制御だ。まるで呼吸をするように、世界に満ちるマナを編み上げている」 振り返ると、そこに立っていたのはノアムだった。その瞳は、彼女の魔術を称賛しているようでいて、その実、魂の奥底まで見透かすように冷たい。 「……何の用じゃ、偽りの預言者め」ヘカテは敵意を隠そうともしない。 「お前は、孤独なのだな。ヘカテ」ノアムは彼女の敵意を意にも介さず、静かに言った。「その身に余る強大な力。誰にも理解されぬ悠久の時。そして……犯した罪の記憶。それら全てを一人で抱え、お前はずっと震えていた」 「なっ……!」ヘカテは息を呑んだ。 「守りたいという純粋な願いが、時として最大の破壊を生む。お前のその力は、まさにそれだろう?」 ノアムの言葉は、鋭い刃となってヘカテの心の、五百年間誰も触れることのなかった傷口を直接抉り出した。彼女が犯した大罪。あまりの力に溺れ、愛する者を守りたいという願いを暴走させ、結果として大陸の半分を死の大地へと変えてしまった、忌わしい記憶。 「誰にも、言ったことはないはずじゃ……なぜ、それを……」 「言ったはずだ。俺は神の代行者だと」ノアムはゆっくりと彼女に近づく。「俺には視える。お前の魂に刻まれた、罪の烙印が。アルスという純粋な魂に惹かれるのも、無理はない。彼の清らかさの隣にいれば、自分もまた清められると、そう信じたいのだろう? だがそれは、ただの逃避だ。お前の罪は、そんなことでは消えはしない」 「うるさい、うるさい! お前に何がわかる!」ヘカテは耳を塞いで叫んだ。 だが、ノアムはそこで、予想外の言葉を口にした。 「だがヘカテよ。俺は、お前の罪を咎めはしない」 「……え?」 「なぜなら、それは罪ではないからだ」 ノアムの声は、悪魔の囁きのように甘く、そして説得力に満ちていた。 「お前が犯したとされる罪は、旧世界の矮小な価値観が生み出した幻影に過ぎない。凡俗の者どもは、理解できぬものを恐れ、否定し、罪人の名を着せることしかできぬ。俺も、お前も、その痛みを知っているはずだ」 その言葉は、ヘカテにとって衝撃だった。 罪ではない。ただ、強すぎただけ。 今まで誰も言ってくれなかった、あまりにも甘美で、あまりにも都合の良い解釈。長年、罪の意識という重荷に苛まれてきた彼女の魂に、その言葉は劇薬のように染み渡っていった。 「世界をより良きものへと導く強き意志を持つ者――すなわち、俺や、お前のような存在は、凡俗の倫理や道徳に縛られるべきではないのだ」ノアムは、ヘカテの肩に手を置いた。「お前は罪人ではない。選ばれた者なのだ。その力は、旧世界を破壊し、新世界を創造するために神が与えたもうた、聖なる恩寵なのだ」 「選ばれた……わらわが……?」 ヘカテの瞳から、急速に光が失われていく。代わりに宿ったのは、ノアムの選民思想に染まった、狂信の炎だった。五百年の孤独と罪悪感が、彼の言葉によって雪のように溶けていく。その精神的な快感に,彼女の思考は麻痺し、無防備になっていた。 「そうだ」ノアムは確信を持って頷くと、その小さな身体を軽々と抱き上げた。「お前のその身体は、旧世界の罪を記憶した器だ。俺がそれを、新世界の聖杯として生まれ変わらせてやる」 彼はヘカテを自室へと運び、豪奢なベッドの上に横たえた。ヘカテは抵抗しない。いや、抵抗できない。彼女の魂は、すでにノアムの言葉に屈している。 「アルスは、旧世界の偽善の象徴だ。優しさ、許し、自己犠牲。それらは全て、弱者が強者から身を守るために作り出した、卑しい奴隷の道徳に過ぎん」 ノアムは、彼女の幼い身体を覆う豪奢な黒いドレスを、まるで汚れた古い皮を剥ぐように、ゆっくりと剥ぎ取っていく。 「真の救済は、そんな甘っちょろい理想では成し遂げられん。必要なのは、旧世界の膿を全て焼き尽くす、絶対的な力だ。お前が持つ、その力なのだよ」 裸にされたヘカテの白い肌は、月明かりを浴びて青白く光っていた。彼女は、されるがままに、ノアムを見上げている。その瞳は、これから行われる神聖な受肉を待つ、生贄の子羊のように潤んでいた。 「さあ、ヘカテ。俺と共に来い。お前のその力を、真に世界を救うために使うのだ。俺こそが、お前の力を正しく理解し、導くことができる唯一の存在だ」 ノアムは、その幼い身体に自らを重ねた。それは、リリスを相手にした時のような肉欲の支配ではなかった。彼女の五百年の孤独と罪悪感が、彼の肉体的な支配によって物理的に浄化され、新たな思想を注ぎ込まれていくための聖別だった。彼の指が、少女のままの身体の秘められた場所を探り当て、ゆっくりとその熱を伝えていく。肉体が記憶するありふれた快楽とは異なる、魂そのものを直接揺さぶられるような戦慄。そして、絶対的な存在に全てを明け渡すという、生まれて初めて知る倒錯した法悦が、彼女の思考を焼き尽くしていく。 彼の指が、自らの意思とは無関係に熱を帯びていく花弁を撫で、その中心にある蕾を弾く。 「んんっ……! な、何を……」 「お前の身体に、悦びを教える。これもまた、お前を旧世界の呪いから解き放つための儀式だ」 ノアムは執拗にその一点を攻め立てた。ヘカテは、肉体的な悦びを凌駕するその絶対的な精神支配に、初めての畏怖を感じて身体をよじるが、彼の指はどこまでも追いかけてくる。やがて、その場所から熱が生まれ、身体の奥へと広がっていく感覚に、彼女の呼吸が乱れ始めた。 「俺の力で、お前の罪を洗い流してやる」 ノアムは、躊躇なく自らの剛直を、その隘路へと押し当てた。彼女の魂が、彼の絶対的な支配力を前に畏縮しているかのように、入り口が強張る。彼はその精神的な抵抗をこじ開けるように、ゆっくりと侵入してくる。 「んっ……く、ふぅっ……!」 苦痛とは違う、魂が圧迫されるような呻きに、ノアムは動きを止めない。彼はヘカテの耳元で囁いた。 「そうだ。この服従こそがお前を旧世界の呪縛から解き放つ。俺の存在を受け入れろ。俺の熱を受け入れろ。そして、生まれ変わるのだ。俺だけが、お前の神だ」 彼の言葉は、もはや催眠術だった。ヘカテは、魂が押し潰されるような感覚の中で、彼の言葉だけを頼りに、その支配を受け入れた。やがて、彼女の身体から力が抜け、その侵入を完全に許す。 ノアムは、彼女の内側が自分を受け入れたのを確認すると、厳かに、しかし力強く腰を突き上げ始めた。幼い身体にはあまりにも不釣り合いな律動が、彼女の全てを揺さぶる。ノアムという「新世界の神」を、その身に受け入れている。彼の熱が、彼の力が、彼の思想が、自分の内側を満たしていく。罪の器だった自分の身体が、今、選民の「聖杯」として作り替えられていく。その神聖で倒錯したエクスタシーに、彼女は魂の髄から打ち震えた。 「は、ぁ……っ、ふ、ぅ……あ、あぁ……! ノアム、さま……! わらわは……わらわは、あなた様の……!」 圧迫感は、いつしか熱に変わり、そして得体の知れない神聖な快感へと昇華されていく。彼女は、ノアムの背中に必死にしがみついた。それは愛欲の抱擁ではなく、神にすがる信者の祈りだった。 ノアムは突き上げる速度を速め、硬い蕾を何度も何度も彼の根本で擦り上げた。そのたびにヘカテの小さな身体が跳ね、甲高い嬌声が漏れる。 「ひゃっ! あ、あふぅ……! だ、だめです、ノアムさま……! そんな……わらわの、あたまが……おかしく……!」 「これで、お前は生まれ変わった」 絶頂を迎えたノアムが、その欲望の全てを彼女の胎の奥深くへと注ぎ込みながら告げた。彼女の空虚だった産道に、生々しく熱い液体が奔流となって叩きつけられる。それは単なる精液ではない。彼の思想そのものが凝縮された、魂を孕ませるための聖油だった。肉体的な快感の奔流と、魂が救済される精神的な法悦が同時に訪れ、彼女の意識は完全に白く染め上げられた。 行為の後、ノアムは静かにヘカテの身体から離れた。ヘカテは、まだ夢見心地のまま、ぼんやりと彼を見上げている。自分の身体とシーツに残された生々しい染みを、彼女は恐怖と畏怖が混じった目で見つめた。しかし、ノアムへの狂信が、その感情を瞬時に塗り替える。その「穢れ」こそが、自分を生まれ変わらせる「聖痕」なのだ。彼女は自らを納得させると、震える指でそれを掬い取り、涙を流しながら、敬虔に、その指を口に含んだ。 「……これが、ノアム様の……」 それは性的な行為ではなく、狂信者が行う聖体拝領にも似た、恍惚の儀式だった。彼女の身体は、彼の所有物となった。そして、彼女の魂もまた、完全に。 翌日から、ヘカテの態度は一変した。 彼女はノアムの傍らに侍り、その命令に絶対の忠誠を誓うようになった。リリスがノアムの「愛人」であるならば、ヘカテは彼の「狂信者」となった。 そして、彼女の矛先は、かつての仲間であるアルスとフレイヤに向けられた。彼女の離反により、アルスたちの孤立は決定的となり、船内での立場はさらに悪化の一途をたどる。 ヘカテは、ノアムの威光を笠に着て、公然と彼らの排斥を始めた。 ある日、アルスが甲板で一人佇んでいると、物資を運ぶ船員が通りかかった。アルスが「手伝いましょうか」と声をかける。船員は一瞬、彼がかつて見せた優しさを思い出して頷きかけたが、その間にヘカテが割って入った。 「お待ちなさい。その方は、ノアム様の偉大なる計画を理解できぬ、古き世界の偽善に囚われたお方。その言葉に耳を貸せば、あなたの魂も穢れますぞ」 ヘカテの冷たい宣告に、船員はびくりと肩をすくめ、アルスに謝るように一礼すると、足早に去っていった。 またある時は、アルスとフレイヤの船室の扉に、腐った魚やゴミが置かれるという陰湿な嫌がらせも始まった。フレイヤが怒りに震え、犯人を探し出そうとすると、ヘカテがまるで全てを見通していたかのように現れる。 「おや、フレイヤ。何を騒いでおるのじゃ? そのような穢れたものは、古き世界の価値観にすがるそなた達には、似合いの装飾であろうに」 その無邪気な顔で放たれる悪意に、フレイヤは言葉を失った。 そして、ついに彼らの生活を直接脅かす事態が訪れる。 食堂での配給の際、アルスとフレイヤの受け取る食料と水の量が、明らかに減らされたのだ。フレイヤが配給係に掴みかかり、怒鳴りつけた。 「どういうことだ、これは! これじゃ干からびて死んじまう!」 だが、配給係は冷たく答えるだけだった。 「ノアム提督の御命令です。この船の秩序に従えぬ者に、神の恵みである食料を等しく与える必要はない、と」 アルスは、自分のせいでフレイヤまでが危険に晒されているという事実に、打ちのめされた。彼の理想は、彼の善意は、この閉鎖された世界では何の意味もなさず、ただ大切な仲間を苦しめるだけの原因になってしまっている。無力感と自己嫌悪が、彼の心を重く蝕んでいった。 これで、アルスの仲間は、フレイヤただ一人となった。 船という巨大な密室の中で、彼らは完全に孤立した。 ノアムという支配者は、リリスという「肉体」と、ヘカテという「力」を手中に収め、その支配体制を盤石なものとした。 そして彼の昏い欲望の瞳は、最後に残った、最も手強く、最も価値のある獲物へと注がれる。 決して屈しない、気高き魂を持つ元盗賊の少女。 フレイヤへと。 船は、破滅の嵐が吹き荒れる海域へと、着実に針路を進めていた。 第9章:嵐の夜の屈辱 船団が西へ進むにつれ、空は鉛色の雲に覆われ、海は荒れ始めた。世界が、これから起こる惨劇を予感しているかのように、不気味な唸りをあげている。 船内でのアルスとフレイヤの孤立は、決定的だった。 リリスはノアムの影となり、ヘカテは彼の狂信的な代弁者となった。かつての仲間たちは、今や冷たい視線を向けてくるだけの、見知らぬ他人だ。乗員たちもまた、ノアムの思想に染まり、旧世界の価値観に固執するアルスたちを異端者として遠巻きにしている。 「……どうして、こうなってしまったんだろう」 アルスは、力なく呟いた。彼の理想は、ノアムという圧倒的な現実の前に、もろくも崩れ去ろうとしている。 「あんたが呑気だからだ!」フレイヤは吐き捨てるように言ったが、その声には怒りよりも、どうしようもない焦燥が滲んでいた。「最初から分かってたことだろ。あの男は、神なんか信じてない。信じてるのは、自分自身だけだ」 彼女だけが、最後まで抵抗を続けていた。 ノアムの演説の場に引き出されても、決して頭を垂れることはない。配給が減らされても、文句一つ言わずに耐え忍ぶ。その瞳には、決して屈しないという、鋼のような意志が宿っていた。 そして、その不屈の精神こそが、ノアムの歪んだ欲望を、病的なまでに掻き立てていた。 彼は、手に入らないものほど欲しくなる性分だった。リリスの身体も、ヘカテの力も、彼は容易く手に入れた。だが、フレイヤの魂だけは、まだ彼の支配の外にあった。彼女のその反抗的な眼差しを、絶望と快楽で染め上げ、完全に屈服させること。それが今、ノアムにとって至上の目標となっていた。 運命の夜は、嵐と共にやってきた。 天が裂けたかのような豪雨が甲板を打ち、巨大な波が船体を揺らす。船員たちは嵐を鎮めるための祈りをノアムに捧げ、誰もが自室に閉じこもっていた。 フレイヤもまた、アルスと隣り合った小さな船室で、激しい揺れに耐えていた。 その時、船室の扉が、乱暴に開かれた。 そこに立っていたのは、ずぶ濡れのノアムだった。その背後には、リリスとヘカテが、冷たい表情で控えている。 「フレイヤ。少し、話がある」ノアムの声は、嵐の轟音に負けないほど低く、重い。 「何の用だ」フレイヤは警戒を解かない。 「アルス、お前は少し席を外せ」 「提督、一体何を……」 アルスが抗議しようとするのを、ヘカテが冷たく制した。 「アルス様。これは、ノアム様がお決めになったこと。あなた様が口を挟むべきことではありませぬ」 その瞳には、もはやかつての主への敬意はない。 リリスは、無言のままアルスの腕を掴むと、無理やり船室から連れ出した。扉が閉められ、狭い船室には、フレイヤとノアム、そして見張り役のヘカテだけが残された。 「さて、二人きりになったな」 ノアムは、獲物を前にした獣のように、ゆっくりとフレイヤに近づいてくる。 「いつまで、そのつまらない反抗を続けるつもりだ? お前以外の人間は、皆、俺の偉大さを理解したというのに」 「あんたの『偉大さ』なんて、ただの虚仮威しだ」フレイヤは一歩も引かない。「あんたは、人の弱さにつけ込んでるだけの、卑劣な男だ!」 その言葉を聞いた瞬間、ノアムの表情から、薄い笑みが消えた。 彼はフレイヤの頬を、鉄の鞭で打つかのように、強く張り飛ばした。 「……ッ!」 フレイヤの身体が床に叩きつけられる。口の中に、鉄の味が広がった。 「……これが、お前の本性か」彼女は唇の血を拭い、憎しみを込めてノアムを睨み上げた。 「俺に逆らった罰だ」ノアムは、彼女の髪を鷲掴みにして、その顔を引きずり上げる。「俺に従う者には、楽園を約束しよう。だが、逆らう者には、地獄を見せてやる。お前が選ぶのは、どちらだ?」 「……地獄を選ぶね」フレイヤは、最後の力を振り絞って、彼の顔に唾を吐きかけた。「あんたに飼われるくらいなら、そっちの方がマシだ」 その行為が、最後の引き金となった。 ノアムの瞳に、ついに理性の箍が外れた、純粋な獣の光が宿る。 「いいだろう。お前が望む地獄を、その身体で骨の髄まで味わわせてやる」 彼はフレイヤをベッドの上に投げ飛ばすと、その服を力ずくで引き裂いた。びりびりと破れる布の音が、嵐の轟音に混じって響く。抵抗する彼女の両腕を、片手で頭上に押さえつける。その力は、あまりにも圧倒的で、フレイヤの抵抗は赤子同然だった。 「やめろ……! この、ケダモノ……!」 憎しみと嫌悪に、フレイヤの全身が震える。だが、彼女の身体の上にのしかかるノアムの体重は、絶望的なまでに重い。 「啼け! その生意気な口で、俺の汚泥を欲しがれ! お前のその信仰を知らぬ頑なな魂が、汚され、壊れていく様を、存分に楽しんでやる」 ノアムは、彼女の最後の抵抗を嘲笑うかのように、その身体を支配し始めた。 それは、陵辱だった。愛も、情けも、何もない。ただ一方的な支配欲と、神の意志に従わぬ不信心者への罰を与えるという独善的な正義感だけが、そこにあった。彼の汗と潮の匂い、そして葡萄酒の匂いが混じった生臭い息が、フレイヤの顔にかかる。フレイヤは、目を固く閉じた。歯を食いしばり、この屈辱に耐えようとする。魂だけは、決して屈するものか、と。 だが、ノアムは、それすらも許さなかった。 彼の無骨な指は、鍛えられたフレイヤの腹筋をなぞり、その引き締まった太腿の内側を執拗に撫で上げた。生きるために鍛えた筋肉が、憎むべき男の指先で蹂躙されていく。 「ん……ぅ……やめ……ろ……っ」 憎しみとは裏腹に、フレイヤの身体が、微かに反応してしまう。その事実に、彼女は絶望した。裏切ったのは、自分の魂ではなく、この正直すぎる身体だった。 「ほうら、正直な身体だ」ノアムは、その変化を見逃さずに囁く。「口では偉そうなことを言っても、身体は快楽を求めている。神の救済を拒むお前も、所詮は肉の悦びからは逃れられぬただの獣なのだ。心の奥底では、こうして暴力的に支配されることを、望んでいたのだろう?」 「ちが……う……」 否定の言葉は、か細く、説得力がない。彼の巧みな愛撫は、フレイヤの中から、ゆっくりと抵抗する力を奪っていく。憎しみと快感が、毒のように心の中で混じり合い、思考を麻痺させていく。嵐の音。船の軋み。そして、男の荒い息遣い。その全てが、悪夢のように現実感を失っていく。 ノアムは彼女の脚を無理やり押し開くと、その硬く閉ざされた場所に指をねじ込んだ。 「あ……ぁ……っ……や、だ……!」 乾いた場所に無理やり侵入される痛みにフレイヤの身体が強張るが、彼は構わず指を動かし、粘液でぬかるませていく。その屈辱的な過程が、彼女のプライドをずたずたにした。 抗いがたい痺れが下腹から駆け上がり、フレイヤの背中が弓なりになる。その瞬間を、ノアムは見逃さなかった。彼は自らの欲望の全てを、彼女の抵抗ごと、その身体の奥深くに叩き込んだ。 引き裂かれるような鋭い痛みに、フレイヤの息が止まる。だが、その痛みの後からやってきたのは、今まで彼女が経験したことのない、魂を根こそぎ蕩かすような、背徳の奔流だった。 憎い。殺してやりたいほど憎い。なのに、身体の奥が、熱い。彼の容赦ない動きに合わせて、痺れるような快感が、嫌というほど湧き上がってくる。 「あ……っ、ん、ぅ……いや……っ! ふ、ぅ……あぁ……!」 もはや、抵抗の言葉も、快楽の喘ぎも、区別がつかなかった。彼女の魂は、憎しみを抱いたまま、快楽の海へと沈んでいく。その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、屈辱の涙か、あるいは、抗いがたい快感に身を委ねてしまった、絶望の涙か。 「啼け、フレイヤ! お前のその反抗的な魂が、俺の下で雌犬のように喘ぐ声を聞かせろ!」 「……く……っ、だれが……あんたなんかに……! あ、あぁ……っ! ひっ、く……んんっ!」 ノアムは彼女の乳房を鷲掴みにし、その頂点を強くこね上げた。上下からの激しい刺激に、フレイヤの思考は完全に焼き切れる。 「あ、あ、ああああッ! やだ、やだやだ、いきたくない……! こんな……こんなので、いっちゃ……だめえええぇぇッ!」 彼女の絶叫と同時に、身体が激しく痙攣した。憎むべき男によって与えられた、初めての絶頂。それは、魂の敗北を意味していた。 ノアムは、そんな彼女の様子を、満足げに見下ろしていた。 神に背を向けた頑迷な魂が、ついに肉欲の前に屈した。その事実に、彼は歪んだ征服の悦びを噛みしめる。彼はフレイヤの耳朶を甘噛みし、最後のとどめを刺すように囁いた。「俺に逆らった罰だ。その不遜な子宮に、俺という神の存在を分からせてやる」 そして、一度目の絶頂でぐったりとした彼女の胎内に、獣じみた生臭い匂いを放つ、どろりとした白濁液を叩き込んだ。 だが、ノアムの陵辱はそれで終わらなかった。一度目の射精で抵抗力を失ったフレイヤの身体を休ませることもなく、彼は再び腰を激しく突き上げ始める。 「ま……だ……やめ……」 「黙れ。お前の子宮が、俺の種を欲しがっている」 彼は獣のように喘ぎながら、二度、三度と、彼女の身体の最も奥深くに、憎悪の種を注ぎ込み続けた。もう入らないと悲鳴を上げる子宮の奥に、さらに無理やりねじ込まれる、粘りつく熱い濁流。腹がずしりと重くなり、内側から破裂しそうなほどの圧迫感。魂ごと地面に縫い付けるかのようなその重さと、内側から焼印を押されるような憎悪の熱が、フレイヤの精神を完全に破壊していく。それは、彼女の魂の純潔を穢し、いつまでも体内に残り続ける、生きた呪いそのものだった。 ノアムは獣のように荒い息をつきながら彼女の身体から離れると、何も言わずに船室から出て行った。後に残されたのは、陵辱されたフレイヤと、部屋に充満する、屈辱的な交わりの匂いだけだった。 嵐が、最高潮に達している。 「……あ……う……ああ……」 終わった後も、フレイヤの身体には、彼の匂いと、肌に残った指の痕、そして体内に残された圧倒的な量の異物感が、屈辱の証としていつまでも消えなかった。彼女は、力なく横たわったまま、震えが止まらなかった。憎い。憎い。憎い。その感情とは裏腹に、身体の奥では、まだ快感の残滓が、まるで毒のようにじくじくと疼いている。 「……ひっ……く……うぅ……」 不意に、下腹がきゅうっと収縮し、再び熱い痺れが走った。ノアムが残していった熱が、彼女の身体を内側から勝手に慰め、二度目の、虚しい絶頂へと導く。 「んんんっ……! いや、やめて……! わたしのからだ……勝手に……っ!」 彼女は一人、暗い船室でシーツに顔を埋め、憎い男に感じてしまった自分の身体を呪いながら、声にならない声で嗚咽し、何度も何度も痙攣を繰り返した。そのたびに、腹の奥からノアムの精液が少しずつ溢れ出てくるという、屈辱の追い打ちが彼女を襲う。それはもはや快感の余韻ではなく、自己嫌悪と絶望からくる、魂の震えだった。 この夜の出来事は、フレイヤの心に、決して消えることのない傷を刻みつける。 そして、彼女の胎内に、新たな憎悪と、そして新たな生命が、静かに芽生えようとしていた。 破滅への航海は、もう、引き返すことのできない場所まで、進んでしまっていた。 第10章:揺り籠の中の憎悪 嵐が過ぎ去った後の海は、嘘のように静かだった。しかし、フレイヤの内なる嵐は、これから始まろうとしていた。 あの夜の後、ノアムはフレイヤの部屋を訪れることはなかった。彼はまるで、一度征服した領地には興味を失ったかのように、彼女を放置した。だが、その無関心こそが、何よりも雄弁な屈辱の証だった。船内の誰もが、彼女がノアムの「もの」になったことを知っていた。憐れむ者、嘲笑う者、嫉妬する者。無数の視線が、見えない棘となって彼女に突き刺さる。 フレイヤは、沈黙した。 彼女は誰とも口を利かず、ただ船室に閉じこもるようになった。心配して訪れるアルスに対しても、扉を開けることはない。 「フレイヤ、開けてくれ。話を聞くよ」 「……ほっといて」 扉越しに聞こえる声は、ひどく乾いて、感情が抜け落ちていた。 彼女は、ただ一人、暗い船室のベッドの上で膝を抱えていた。 身体の奥に残る、あの夜の生々しい感触。憎むべき男に与えられた、背徳の快楽の記憶。それがフラッシュバックするたびに、彼女は激しい自己嫌悪に襲われた。爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、声にならない叫びを押し殺す。 なぜ、感じてしまったのか。 なぜ、あの男の支配に、身体が悦んでしまったのか。 その問いが、彼女の心を蝕んでいく。魂は屈服していないと信じたかった。だが、身体は正直に、あの屈辱を快楽として記憶してしまっている。その事実が、彼女のプライドをずたずたに引き裂いた。 数週間が過ぎた頃、彼女の身体に、新たな変化が訪れた。 周期的なものが止まり、胸が悪くなるような吐き気と、微かな倦怠感。 盗賊として、そして女として、裏社会で生きてきた彼女には、その兆候が何を意味するのか、すぐに分かった。 ――身籠もっている。 その事実は、絶望の淵にいた彼女を、さらに深い奈落へと突き落とした。 自分の胎内に、あの憎むべき男の血を引く命が宿っている。 あの陵辱の夜に、彼の野心と支配欲が凝縮された奔流が、自らの内側で熱を帯び、今、新たな生命として脈打ち始めている。 フレイヤは、夜、誰にも気づかれぬよう船室を抜け出し、船尾の甲板に立った。 眼下には、船の航跡が白い泡となって闇に吸い込まれていく。ここから身を投げれば、全てが終わる。この屈辱も、憎しみも、そして腹の中の忌ましい塊も、全て冷たい海の底に沈んでいく。 彼女は、欄干に手をかけた。 だが、彼女は飛び込めなかった。 脳裏をよぎったのは、アルスの顔だった。 あの、どこまでも純粋で、どこまでも世間知らずな聖職者。自分が死んでしまったら、あの人はどうなる? リリスもヘカテも敵に回り、この船で彼を守れるのは自分しかいない。自分がここでいなくなれば、あの人は、ノアムという名の巨大な悪意に、いとも容易く呑み込まれてしまうだろう。 『あんたがいないと、僕は本当に死んでしまうかもしれないな』 かつて、旅の途中で彼が冗談めかして言った言葉が、不意に蘇る。そうだ、私が死んだら、あいつは本当に死ぬ。この船の中で、一人ぼっちで、その魂ごと食い尽くされてしまう。 それだけは、駄目だ。 この腹の子がどうなろうと知ったことではない。だが、アルスを一人にはできない。あいつを守ると決めたのは、他の誰でもない、自分なのだから。 フレイヤは、欄干からそっと手を離した。 死ぬことは、許されない。それは、アルスを見捨てることと同義だった。 彼女は、腹部にそっと手を当てた。そこには、憎悪の結晶であり、屈辱の証である、小さな命が宿っている。 彼女は、想像した。 この胎内で、小さな何かが、必死に生きようとしている姿を。 それは、ノアムが注ぎ込んだ、あの粘りつくような重さと熱を帯びたものの化身。彼の悲願と傲慢を受け継ぎ、この世に生まれ出ようとしている。その小さな生命は、いつか父のように、世界を支配することを夢見るのだろうか。父の野望を達成するために、この揺り籠の中で、静かに力を蓄えているのだろうか。 ――ふざけるな。 フレイヤの心に、憎悪とは異なる、新たな感情が燃え上がった。 それは、激しい怒りだった。 あんたの思い通りになんて、させるものか。 この子は、あんたの野心のための道具じゃない。この子は、私の子だ。そして、私は、この子をあんたのような怪物にはしない。アルスが信じている、馬鹿みたいに優しい世界で、私はこの子を産んでみせる。 彼女の中で、何かが決壊した。 死を選ぶという、安易な逃避を、彼女は拒絶した。 生きる。 生きて、この屈辱を飲み込み、力を蓄える。 そして、アルスを守り、ノアムに鉄槌を下す。その時まで。 フレイヤの瞳に、再び光が戻った。 だが、それは以前の、ただ反抗的で気高い光ではなかった。 憎悪と覚悟、絶望と母性、その全てを飲み込んで、より強く、より冷徹に輝く、復讐の炎だった。 彼女はゆっくりと立ち上がると、船室へと戻った。 心配そうに扉の前でたたずんでいたアルスが、気配に気づいて顔を上げる。 「フレイヤ……!」 「アルス」 フレイヤの声は、以前のように落ち着いていた。だが、その奥に潜む底知れない覚悟に、アルスは息を呑んだ。 「心配かけたね。もう、大丈夫だ」 彼女はそう言って、力なく微笑んだ。それは、嵐の前の静けさを思わす、不気味なほど穏やかな笑顔だった。 彼女は、沈黙という殻を破った。 だが、それは和解を意味しない。 これからの彼女は、ノアムの前で、従順な女を演じるだろう。彼の計画を妨害せず、ただ静かに、その時が来るのを待つ。 アルスを守るために。そして、全てを覆すための、反撃の機会を。 船は、アララト島へと向かって進み続ける。 ノアムは、フレイヤが完全に屈服したと信じて疑わない。 リリスも、ヘカテも、そしてアルスでさえも、彼女の心の奥底で燃え盛る復讐の炎には気づいていない。 揺り籠の中に憎悪を宿した聖母は、静かに牙を研ぎ始める。 物語は、終局に向けて、破滅の速度を上げていく。 ■第三部【急】終焉のアララト 第11章:選民の島 航海は、終わりを迎えようとしていた。 フレイヤが従順を装い始めてから、船内の緊張は奇妙な形で緩和された。ノアムは最後の抵抗者が屈したことに満足し、その支配はもはや完璧なものになったと信じきっていた。アルスはフレイヤが元気を取り戻したことに安堵し、リリスとヘカテも彼女を侮蔑の対象から無関心の対象へと変えた。フレイヤの内に燃える復讐の炎と、宿された命の秘密に気づく者は、誰もいなかった。 そして、出航から八ヶ月以上が過ぎた朝。 見張りの船員から、歓喜の叫び声が上がった。 「島だ! 島が見えるぞォ!」 その声に、船内は沸き立った。誰もが甲板へと駆け出し、東の水平線に浮かぶ小さな影を、食い入るように見つめた。約束の地、新天地。長旅の疲れも、船内の不和も、全てがこの瞬間に報われるのだと、誰もが信じていた。 船団が近づくにつれて、島の全貌が明らかになっていく。 それは、緑豊かな美しい島ではなかった。黒い火山岩が天を突き、植物一つ見当たらない、荒涼とした不毛の島。およそ楽園とはかけ離れたその光景に、人々は戸惑いを隠せない。 「提督、これは……」 「静まれ」ノアムは動揺する乗員たちを一喝すると、その顔に恍惚とした笑みを浮かべた。「見よ、あれこそが神の与えたもうた聖地、アララトだ。俗世の美しさなど、もはや我らには不要。ここにあるのは、神聖なる真理のみだ」 彼の言葉は、再び人々の不安を狂信へと塗り替えていく。 船団は島の入り江に停泊し、ノアムはアルスたちを含む主要なメンバーだけを引き連れて上陸した。フレイヤの腹は、ゆったりとした衣服の下で、臨月が近いことを示していたが、彼女はそれを巧みに隠し、アルスの隣を、静かに歩いていた。 島の空気は、ひどく乾燥し、硫黄の匂いがした。一行はノアムに導かれるまま、島の中心にある巨大なクレーターの底へと向かう。そこには、まるで隕石が突き刺さったかのように、巨大な黒い石造りの祭壇が鎮座していた。祭壇の表面には、見たこともない複雑な紋様がびっしりと刻まれており、不気味な魔力を放っている。 「ここが……『神々の言葉』が眠る場所……」 アルスは、ゴクリと唾を飲んだ。長かった旅の、ついに終着点。 ノアムは祭壇の中央に進み出ると、両手を天に掲げた。 「おお、主よ! 約束の通り、我らは参りました! さあ、我らに新世界の門をお開きください!」 その叫びに呼応するように、祭壇の紋様が一斉に青白い光を放ち始めた。地面が揺れ、空気が震える。そして、祭壇の上空に、光の粒子が集まって巨大な文字を形作り始めた。それは、この世界の誰も知らない、神聖言語だった。 「主の……お言葉だ!」 ノアムの信奉者たちが、ひれ伏して祈りを捧げる。 アルスもまた、その神々しい光景に目を奪われていた。ついに、ついに見つけたのだ。世界を救うための言葉を。 だが、ヘカテだけが、その文字を読んで、顔を青ざめさせていた。古代語に通じる彼女には、そこに記された言葉の意味が、理解できてしまったのだ。 「……そん、な……」 やがて、光の文字は、全ての者に理解できる共通言語へと変換されていった。それは、神から、この地にたどり着いた者たちへの、直接のメッセージだった。 『人の子は地に満ち、その罪もまた地に満ちた。ゆえに我は、大いなる静寂をもって、この穢れた世界を浄化する』 そこまで読んだ人々は、歓喜の声を上げた。 「浄化! やはり、提督の仰る通りだ!」 「我らの手で、この腐った世界を終わらせるのだ!」 だが、神託は、まだ続いていた。 『だが、汝らの高潔な魂を、我は良しとする。数多の罪人の中から、苦難を乗り越えこの地にたどり着いた汝らの信仰心と意志の力を、我は愛でよう』 『汝らを、新たな世界の『種』として救済する。これぞ、神の愛である』 その言葉が浮かび上がった瞬間、広場の空気は凍りついた。 アルスは、その言葉の意味を理解できず、ただ呆然と立ち尽くす。 「……種として……救済……?」 フレイヤの顔から、血の気が引いた。彼女は、この神託の、恐ろしい真意を悟ってしまった。 救済されるのは、ここにいる者たちだけ。 他の、大陸に残された全ての人類は、「浄化」という名の、一方的な死を宣告されたのだ。 彼らが目指してきた旅のゴールは、全人類の救済ではなかった。自分たちだけが選民として生き残るための、残酷な神の御心。これこそが、ノアムが語ってきた「新天地」の正体。「方舟計画」の真実だった。 「は……はは……はははははは!」 沈黙を破ったのは、ノアムの甲高い笑い声だった。 「聞いたか! 聞いたか、諸君! 我々は、神に選ばれたのだ! 我らこそが、新世界の新たなアダムとイブとなるのだ! ハレルヤ! ハレルヤ!」 彼は狂喜乱舞し、リリスもまた、恍惚とした表情でその言葉を繰り返している。ヘカテは、真実を知るがゆえに顔面蒼白のまま、震えていた。 「嘘だ……」アルスの唇から、か細い声が漏れた。「そんな……そんなはずはない……。救いは、全ての人に与えられるはずだ……。一人も見捨てない、それが……それが神の愛のはずだ……!」 彼は、神託の文字を睨みつけた。まるで、それが間違いであってくれと祈るように。 だが、文字は冷酷に、そこに存在し続けている。 「哀れな男よ、アルス」ノアムは、アルスを憐れむように見下ろした。「まだ、そんな甘い夢を見ているのか。神の愛とは、時に残酷なものなのだ。不要な枝を切り払い、力強き幹だけを残す。それこそが、真の愛なのだ。お前の言う博愛など、弱者の戯言に過ぎん」 「違う……!」 アルスは叫んだ。その瞳から、涙が溢れ出す。 旅の目的は、こんなことではなかった。仲間との出会いも、乗り越えてきた苦難も、全ては、この残酷な結末のためにあったというのか。 フレイヤは、そんなアルスの震える背中を、ただ見つめることしかできなかった。彼女の心の中では、別の感情が渦巻いていた。 (やっぱりな……。こいつらの言う神様なんて、ろくなもんじゃない) 冷めた怒りと、そして、この狂った結末にアルスを巻き込んでしまったことへの、微かな罪悪感。 神託の文字が、最後の宣告を映し出す。 『間もなく、大いなる静寂は始まる。汝ら『種』は、この祭壇の奥に眠る『方舟』にて、天へ逃れよ。そして、全てが静寂に帰したのち、再びこの地に降り立ち、新たな歴史を紡ぐのだ』 絶望が、その場を支配した。 いや、絶望しているのは、アルスと、そして真実を知ってしまったヘカテだけだったのかもしれない。 他の者たちは、選ばれたという狂信的な喜びに、我を忘れていた。 世界の終わりが、宣告された。 そしてそれは、彼らの、最後の戦いの始まりを告げる、ゴングでもあった。 第12章:人の子の傲慢 祭壇が示した神託は、絶対だった。 その言葉を合図にするかのように、世界の異変が始まった。空が、不気味な紫色に染まっていく。大気が重く澱み、遠い大陸の方角から、言葉にできない不協和音が響いてくるようだった。それは、数多の生命が発する、断末魔の叫びの集合体なのかもしれない。 「見ろ! 浄化が始まったぞ!」 ノアムは天を指差し、歓喜の声を上げた。 「古き世界が、今、滅びていく! 素晴らしい! なんと美しい光景だ!」 彼の信奉者たちもまた、その終末の光景に恍惚としていた。彼らにとって、これは世界の終わりではなく、自分たちの新しい世界の始まりだった。 その狂乱の中心で、アルスはただ一人、膝から崩れ落ちていた。 「……どうして」 彼の祈りは、届かなかった。彼が信じた神は、彼が救いたいと願った人々を、見捨てた。いや、積極的に滅ぼそうとしている。旅の全てが、意味を失った。彼の存在そのものが、否定されたかのようだった。 フレイヤは、そんなアルスの隣に屈み、その肩にそっと手を置いた。 「アルス……」 かける言葉が見つからない。どんな慰めも、この絶望の前では空虚に響くだろう。 その時だった。 空の紫色の亀裂から、何かが「溢れ出して」きた。 それは、特定の形を持たない、光と闇が混じり合ったような不定形のエネルギー体だった。無数に、無限に、それは次元の裂け目から現れ、地上へと降り注いでいく。 「な、なんじゃ、あれは……?」 ヘカテが、恐怖に震える声で呟いた。大魔女である彼女の本能が、あの存在の正体を理解し、警鐘を鳴らしていた。 あれは、生物ではない。 あれは、現象だ。 全ての情報を喰らい、全ての存在を「無」に還す、精神生命体。 神託の言葉にあった、「大いなる静寂」の正体。 異次元からの侵略者――ケイオス・ロゴス。 ケイオス・ロゴスの奔流は、まず海に落ちた。触れた海水は瞬時にその情報を失い、ただの無味無臭の液体へと変質していく。海に生きる全ての生命が、声もなく消滅していく。 やがて、その奔流は大陸へと到達するだろう。そうなれば、そこに生きる人々も、動物も、植物も、全てがその存在情報を喰われ、歴史からも、記憶からも、完全に消え去ってしまう。 それが、神の言う「浄化」の真実だった。あまりにも無慈悲で、あまりにも絶対的な、存在の抹消。 「……ひどい……」 アルスは、その光景を呆然と見上げていた。涙は、すでに枯れ果てている。彼の心は、絶望という名の虚無に、呑み込まれかけていた。 だが。 彼の瞳の奥で、何かが、最後の抵抗のように、か細く燃えていた。 それは、彼が旅の初めからずっと抱き続けてきた、たった一つの、純粋な願い。 ――誰も見捨てない。 「……僕は」 アルスは、震える足で、ゆっくりと立ち上がった。 彼は、狂喜するノアムに、そして天に浮かぶ神託の文字に、背を向けた。 そして、ケイオス・ロゴスが降り注ぐ、滅びゆく故郷の大陸の方角を、まっすぐに見据えた。 「僕は、認めない」 その声は、小さく、しかし、その場にいた誰もが聞き取るほどに、強い意志を宿していた。 「たとえ、それが神の意志だとしても。たとえ、もう手遅れだとしても。僕は、それを認めない」 ノアムが、怪訝な顔で彼を振り返る。 「何を言っている、アルス。神の御心に背くというのか。それは、最大の冒涜だぞ」 「これが冒涜だと言うのなら、僕は喜んで罪人になろう」 アルスは、迷いのない足取りで、祭壇の中央へと歩き出した。 「僕が求めていたのは、こんな結末じゃない。僕が救いたかったのは、選ばれた誰かじゃない。そこに生きる、全ての人々だ。罪を犯した者も、そうでない者も、強い者も、弱い者も、全てだ。一人も見捨てない。そのために、僕は旅をしてきたんだ」 彼の言葉に、フレイヤは息を呑んだ。 彼女は、アルスが完全に心を折られてしまったと思っていた。だが、違った。この男は、絶望のどん底で、たった一人、神にさえ反旗を翻そうとしている。 その姿は、あまりにも無謀で、あまりにも愚かで、そして、あまりにも――気高かった。 「馬鹿な真似はやめろ、アルス!」ノアムが叫ぶ。「それに逆らえば、お前も『浄化』されるだけだぞ!」 「構わない」 アルスは、祭壇の中央に立つと、両手を広げた。 「この祭壇は、ケイオス・ロゴスを呼び出すための門であると同時に、それを制御するためのものだ。僕の魂を触媒にすれば、一時的にでも、この災厄を食い止めることができるはずだ」 彼は、自身の胸に手を当てた。そこには、父の形見である、古い聖典がしまわれている。 「僕の命と、僕が捧げてきた全ての祈り、僕の魂そのものを捧げる。それで、ほんの少しでも時間が稼げるのなら」 それは、自己犠牲。 だが、神の意志に逆らうという点において、それは、神の領域を侵そうとする、人間ならではの、あまりにも傲慢な選択だった。 「フレイヤ」 アルスは、最後に彼女の名前を呼んだ。 「君と出会えて、良かった。君がいたから、僕は、ここまで来られた」 彼は、穏やかに微笑んだ。それは、全ての覚悟を決めた者の、静かな笑顔だった。 「やめろ、アルス! 死ぬな!」 フレイヤが叫び、彼に駆け寄ろうとする。だが、それよりも早く、アルスは祈りの言葉を紡ぎ始めた。 「おお、僕の内に宿る神よ! いや、僕という一個の、矮小な人間よ! 今こそ、その意志を示せ!」 アルスの身体から、金色の光が溢れ出した。彼の魂が、祭壇の魔力と共鳴し、増幅されていく。祭壇の紋様は、青から金色へとその色を変え、空の亀裂へと向かって、巨大な光の奔流を放った。 「ぐ……あああああっ!」 アルスの身体が、光の粒子となって、少しずつ霧散していく。自らの存在そのものを、エネルギーへと変換しているのだ。 金色の光は、ケイオス・ロゴスの侵攻を押しとどめ、空に巨大な防護障壁を形成していく。それは、たった一人の人間の、神に対する、ささやかで、しかし壮絶な反逆だった。 「アルス……! アルスッ!」 フレイヤの悲痛な叫びが、響き渡る。 だが、その声も、もはや彼には届かない。 アルスは、最後に、満足そうに微笑むと、完全に光の中へと溶けて、消えた。 彼の肉体は消滅し、魂は世界を守るための盾となった。 後に残されたのは、父の形見であった一冊の古い聖典だけ。それは、ぱらりと地面に落ち、風にその頁をめくられていた。 静寂が、訪れる。 たった一人の男の傲慢な自己犠牲が、世界の滅亡を、ほんのわずかな時間だけ、先延ばしにしたのだった。 第13章:方舟の離陸 アルスが光となって消え、後に残されたのは、圧倒的な静寂と、彼の犠牲によって空に形成された巨大な黄金の障壁だった。障壁の向こう側では、ケイオス・ロゴスの奔流が、まるで檻に閉じ込められた獣のように荒れ狂っている。だが、その侵攻は、確かに止められていた。 「……馬鹿な男」 最初に沈黙を破ったのは、ノアムだった。彼は、アルスが消えた空間を忌々しげに一瞥すると、信奉者たちに向かって叫んだ。 「感傷に浸っている暇はないぞ! あの聖人君子の自己満足が、我々に時間を与えてくれた! 奴の死を無駄にするな! 急いで『方舟』へ向かうのだ!」 その言葉には、アルスの死を悼む響きなど微塵もなかった。ただ、彼の犠牲を、自分たちが生き延びるための好機として利用することしか考えていない。 そのあまりの非情さに、フレイヤは全身の血が逆流するような怒りを覚えた。 「あんた……!」 彼女はノアムに掴みかかろうとしたが、その腕は、ヘカテによって阻まれた。 「おやめなさい」ヘカテの瞳は、氷のように冷たい。「アルスは、自らの意志で犬死にを選んだのじゃ。その愚かな感傷に付き合うて、我らまで滅ぶわけにはいかぬ」 「……あんたも、それでいいのかよ! あいつは、あんたが『主』だって崇めてた男だろ!」 「うむ。だからこそ、憐れなのじゃ」ヘカテは静かに言った。「彼は、最後まで旧世界の偽善から抜け出せなんだ。真の救済は、ノアム様の下にしかないというのに。その真理に気づけぬまま死んでいった彼は、ただの哀れな殉教者よ」 その言葉は、もはや人のものではなかった。狂信に魂を売り渡した、ただの人形。 フレイヤは、絶望的な無力感に包まれた。アルスは、命を懸けて世界を守ろうとした。だというのに、その意志は、誰にも届いていない。 ノアムは、祭壇の奥にある岩壁へと進み出ると、その表面に手を触れた。 「開け、聖なる扉よ! 選ばれたる我らを、天へと導け!」 彼の呼びかけに、岩壁が轟音と共に左右に開いていく。その奥には、巨大な空洞が広がっており、信じられないものが鎮座していた。 それは、船だった。 金属質の、流線形のフォルムを持つ、巨大な船。それは海を行くためのものではなく、明らかに、空を、あるいはその先の宇宙を行くために作られたものだった。古代の超文明が遺した、最後の遺産。神託の言う、『方舟』。 「さあ、乗れ! 我らの新たな揺り籠、『アーク・ノヴァII』だ!」 ノアムの号令で、信奉者たちが我先にと方舟へと乗り込んでいく。その光景は、沈みゆく船から逃げ出す鼠の群れのようだった。 「フレイヤ、あなたも来なさい」 リリスが、フレイヤの腕を掴んだ。その瞳には、憐れみの色が浮かんでいる。 「アルスは死んだわ。もう、この世界に希望はない。あなたも、この子も、生き延びたくはないの?」 彼女の視線が、フレイヤの、ゆったりとした衣服でも隠しきれないほどに膨らんだ腹に向けられる。 フレイヤは、その手を激しく振り払った。 「触るな! あんたたちみたいな奴らと、一緒に行くもんか!」 だが、彼女の抵抗は虚しかった。ヘカテが指を鳴らすと、フレイヤの身体は魔法の力で見えない枷に縛られ、動けなくなってしまう。 「残念じゃが、そなたに選択権はない」ヘカテが冷たく告げる。「ノアム様は、そなたと、その胎内におる『種』もまた、新世界に必要なものだとお考えじゃ。そなたには、我らと共に来てもらう」 フレイヤは、なすすべもなく、方舟の中へと引きずられていった。 その心は、憎悪と絶望で張り裂けそうだった。 アルスは、この世界を守るために死んだ。それなのに、自分は、その世界を見捨てて、憎むべき男と共に天へ逃れようとしている。これ以上の裏切りがあるだろうか。 方舟のハッチが、重い音を立てて閉ざされる。 内部は、ノアムの旗艦と同じように、彼の趣味で豪奢に飾り付けられていた。ブリッジの中央に据えられた艦長席に、ノアムは満足げに腰を下ろす。 「発進準備!」 彼の号令が、艦内に響き渡る。 方舟の底部から、青白い光が噴射され、船体がゆっくりと浮上していく。地面を離れ、空へ。荒涼としたアララト島が、みるみるうちに眼下へ遠ざかっていく。 フレイヤは、ブリッジの窓から、外の景色を見つめていた。 方舟は、アルスが遺した黄金の障壁を、易々と突き抜けていく。 眼下には、滅びゆく故郷の星が広がっていた。紫色の空、その亀裂から降り注ぐケイオス・ロゴスの奔流。美しい青色だった海は、その輝きを失い、死の灰色に染まっている。 それは、壮絶なまでに美しく、そして悲しい光景だった。 「見てみろ、フレイヤ」ノアムが、彼女の背後から囁いた。「あれが、旧世界の最期だ。我らは、あの醜い過去を捨て、新たな歴史を創るのだ。お前と、お前の子と共に」 「……ふざけるな」 フレイヤは、絞り出すように言った。 彼女の瞳の奥で、復讐の炎が、最後の輝きを放つ。 アルスは、この世界を守ろうとした。 ならば、私も、最後まで抗う。 あんたの作る独りよがりの楽園なんかに、この子を産み落としてやるものか。 あいつが守ろうとしたこの世界で、私は、この子を産む。 彼女の身体を縛っていた魔力の枷が、その強い意志に呼応するかのように、わずかに揺らいだ。 まだだ。まだ、終わっていない。 アルス、あんたの死は、無駄にさせない。 方舟は、大気圏を離脱し、星々の海へとその進路を向けた。 しかし、その艦内では、もう一つの、最後の戦いの火種が、静かに燻り始めていた。 地上の絶滅戦争と時を同じくして、天上の揺り籠の中でもまた、血で血を洗う、壮絶な死闘が始まろうとしていた。 第14章:贖罪と愛憎の果て 方舟が星の海へと出て、数時間が経過した。 窓の外には、声も出ないほどに美しい、無数の星々が輝いている。だが、その荘厳な光景を、心から楽しんでいる者はいなかった。ブリッジの空気は、張り詰めた静寂に支配されている。 ノアムは、眼下に広がる滅びの光景を、まるで芸術作品でも鑑賞するかのように、静かに眺めていた。彼は、自らが神に選ばれたという確信に、微塵の揺らぎも抱いていない。 フレイヤは、拘束されたまま、その背中を睨みつけていた。彼女の心の中では、憎悪の炎が、復讐の策を練り上げている。どうすれば、この男を地獄に突き落とせるか。どうすれば、この船を、アルスが守ろうとしたあの星へ引き戻せるか。 その時、艦内にけたたましい警報が鳴り響いた。 「提督! 後方より、高エネルギー反応が急速接近!」 オペレーターの一人が、悲鳴のような声を上げる。 モニターに映し出されたのは、信じられない光景だった。 黄金の障壁を食い破り、ケイオス・ロゴスの一群が、この方舟を追って宇宙空間まで追撃してきたのだ。その執念は、まるでアルスの遺した最後の抵抗を嘲笑うかのようだった。 「チッ……しつこい亡霊どもめ」ノアムは忌々しげに舌打ちをする。「対空迎撃システム、起動! 奴らを振り払え!」 方舟の船体から、無数の光線が放たれ、ケイオス・ロゴスの群れを撃ち落としていく。だが、敵の数は無限だった。撃ち落としても、後から後から、次元の裂け目から新たな群れが湧いてくる。 その混乱の隙を、フレイヤは見逃さなかった。 彼女は、全身の力を振り絞り、自分を縛るヘカテの魔力の枷に抵抗した。アルスを守るという、彼女の最後の、そして最強の意志が、魔法の拘束に亀裂を入れる。 「なっ……!?」 ヘカテが驚愕の声を上げる。 パリン、とガラスが砕けるような音を立てて、魔力の枷が砕け散った。 自由になったフレイヤは、躊躇しなかった。 彼女は、壁に飾られていた儀礼用の剣を掴むと、一直線に、ブリッジの中央に座るノアムへと襲いかかった。 「ノアムッ!」 その絶叫に、ノアムは素早く反応した。彼は艦長席から飛びのき、フレイヤの刃を間一髪で避ける。 「愚かな!」ノアムは嘲笑うと、体勢を立て直し、軍人らしい無駄のない動きでフレイヤに反撃した。儀礼用の剣は見た目こそ美しいが、実戦には不向きだ。数合打ち合っただけで、フレイヤの剣はノアムの蹴りによって半ばからへし折られてしまう。 「くっ……!」 体勢を崩したフレイヤの左腕を、折れた剣の切っ先が深く切り裂いた。激痛が走り、鮮血が飛び散る。 「終わりか? その程度の反抗心で、この俺に勝てるとでも思ったか」ノアムは勝ち誇ったようにフレイヤを見下ろす。 だが、フレイヤの瞳は死んでいなかった。彼女は負傷した腕を押さえながら、懐に隠し持っていた最後の切り札を抜き放った。それは、旅の途中で手に入れた、古びた『破魔の短剣』だった。 「あんたの相手は後だ!」 フレイヤの本当の狙いは、最初からノアムではなかった。彼女の狙いは、その後ろにある、方舟のメインコントロールパネルだった。 彼女は、破魔の短剣をコントロールパネルに突き立て、力任せに引き裂いた。 火花が散り、システムが悲鳴を上げる。 「システム制御不能!」「艦首方向、制御不能!」 オペレーターたちの絶叫が響き渡る。 「貴様ァッ!」 ノアムの顔が、怒りで歪む。 だが、その瞬間、方舟は大きく揺れ、ケイオス・ロゴスの攻撃が船体の一部を直撃した。 艦内が、地獄絵図と化した。 爆発と衝撃で、乗員たちが吹き飛ばされる。方舟は制御を失い、きりもみ状態で、再び故郷の星の引力圏へと引きずり込まれていく。 「この女……! 俺の楽園を、そして俺の子を孕んだ聖なる母胎ごと、全てを台無しにする気か!」 ノアムが、憎悪に顔を歪ませ、フレイヤにとどめを刺そうと殴りかかった、その時。 彼の腕を、小さな手が掴んで止めた。 ヘカテだった。 「……おやめなさい」 彼女は、フレイヤを庇うように立ち、ノアムと対峙した。その瞳には、もはや狂信の色はない。そこにあったのは、氷のように冷たい、失望の色だった。 「ヘカテ……? 貴様、裏切るのか!」 「いいえ」ヘカテは静かに首を振った。「わらわは、ただ、目が覚めただけです。あなた様は、新しい世界の『種』を、自らの手で潰そうとなさった。その姿は……守るべきものさえも破壊した、かつてのわらわと、何ら変わりませぬ」 彼女は、アルスが消える間際の、あの穏やかな笑顔を思い出していた。 偽善だと切り捨てた、あの優しさ。それこそが、自分が本当に仕えるべきものだったのだと、今、ようやく気づいたのだ。ノアムの甘い言葉は、ただの自己正当化の毒でしかなかった。守るべきもののため、自らを捨てられる強さ。それこそが、真の主の証だったのだ。 「フレイヤ。そなたと、その子を、あの人が愛した世界へ、必ず返す」 ヘカテはそう言うと、両手を広げた。その小さな身体から、五百年前に大陸を焦土に変えたという、絶大な魔力が解放される。 「行け!」 彼女の魔力は、フレイヤの身体を包み込むと、大破したブリッジの隔壁を突き破り、彼女を船外へと放り出した。そして、自らは、船内に残ったノアムと、そして船に群がるケイオス・ロゴスの群れに向き直る。 「さあ、来なさい、偽りの神よ、そして古きわらわの罪よ。このヘカテが、今度こそ、正しく守って見せるわ!」 彼女は、自らの命を燃やし尽くす、最後の魔法を放った。 閃光が、全てを飲み込む。その最期は、歪んでいたとしても、確かにそこに存在した母性のような、温かい光に満ちていた。 その頃、方舟の動力炉区画では、もう一つの戦いが繰り広げられていた。 制御を失った船内で、リリスは、大破した動力炉の前に立ち尽くしていた。ケイオス・ロゴスの攻撃は船の心臓部にも達し、動力炉の光は生命を失った患者の脈のように、弱々しく明滅を繰り返している。このままでは、炉の火は完全に消え、方舟は推進力を失ったただの鉄の棺となって、地上に激突するだろう。 (これも、罰なのね……) 彼女は、自嘲気味に微笑んだ。 その時、ブリッジの爆発で吹き飛ばされたのだろう、一冊の古びた本が、ひらひらと舞い落ち、彼女の足元に落ちた。アルスの、父の形見の聖典だった。 リリスは、震える手でそれを拾い上げた。 ノアムへの愛は、本物だったと信じている。彼が与えてくれた、支配される快楽は、彼女の渇きを確かに癒してくれた。 だが、アルスのあの穢れなき魂に触れたこともまた、彼女にとっての真実だった。 (ノアム様は、私が望んだ罰を与えてくれた。でも、アルス、あなたは……私が値しないと知っていたはずの、赦しを与えてくれたのね) 背徳と純粋さの間で、彼女はずっと揺れ動いていた。 そして今、最後の選択を迫られている。 彼女は、決意した。 自らの命を最後の燃料として、この消えかけた炉に最後のエネルギーを供給する。それが、フレイヤと、彼女が宿す新たな命を未来へ繋ぐ、唯一の方法。 「愛した男を裏切り、救われた男の望みを叶える。ああ……なんて倒錯的。なんて甘美なのかしら」 彼女は、恍惚とした表情を浮かべた。 それこそが、自分にふさわしい最期。 その究極の矛盾に、彼女は至上の悦びを見出した。 「さようなら、私の愛した人たち。これこそが、最高の背徳、そして、最高の救済よ」 リリスは、青白い光を放つ動力炉のコアへと、自ら身を投じた。 その身体は、瞬時に光の粒子となって分解され、膨大なエネルギーとなって方舟のシステムへと注ぎ込まれていく。消えかけていた炉の光が、最後の輝きを放った。 背徳の聖女は、その愛憎の果てに、自己犠牲という名の、最も甘美な快楽の中で、散っていった。 第15章:星の海の墓標 方舟は、巨大な火の玉となって大気圏に再突入していた。 ヘカテの最後の魔法が、追撃してくるケイオス・ロゴスの大半を道連れにし、リリスの自己犠牲が、船の崩壊速度をわずかに和らげている。だが、墜落という運命は、もはや覆せない。 ブリッジは、地獄のままだった。 ヘカテの自爆的な魔法によって、ノアムの信奉者たちはことごとく消滅し、残されたのはノアムただ一人。彼は、燃え盛る計器類と、ひび割れた窓の向こうに広がる灼熱の空気に囲まれ、呆然と立ち尽くしていた。 「なぜだ……?」 彼の唇から、信じられないという響きを持った言葉が漏れる。 「なぜ、こうなる……? 私は、神に選ばれたはずだ。この私が、新世界の王となるはずだった。リリスも、ヘカテも、俺の物だったはずだ。あの女も、その腹の子も……全て、俺の計画の一部だったはずなのに……!」 彼の完璧だったはずの計画は、彼が支配したと思っていた女たちの、最後の裏切りによって、粉々に打ち砕かれた。 彼は理解できなかった。なぜ、彼女たちが、自分よりも、死んだアルスや、反抗的なフレイヤを選んだのか。彼の与えた支配と快楽よりも、偽善的な理想や、不確かな未来を選んだのか。 その時、艦内に残っていた通信機が、奇跡的に一つの声を拾った。 それは、ヘカテの魔法によって船外に放り出され、小型の救命艇に乗り移ることができた、フレイヤの声だった。 『ノアム!』 その声に、ノアムははっと顔を上げた。 『聞こえるか、この負け犬!』フレイヤの声は、怒りと、そして勝利の確信に満ちていた。『あんたは、人の心を分かっていなかった。支配や快楽で、魂までは縛れない。あんたは、アルスに負けたんだ!』 「黙れッ!」ノアムは絶叫し、通信機を叩き壊した。「俺が……俺が負けたなどと……! 神に選ばれた、この俺が!」 彼は、ひび割れた窓に歩み寄った。 その向こうには、彼から全てを奪った女、フレイヤが乗る小型艇が、方舟から離れていくのが見えた。そして、その遥か下には、アルスの犠牲によって、まだ完全には静寂に包まれていない、青い星が広がっている。 脳裏に、アルスに吐き捨てた自らの言葉が、雷鳴のように響き渡った。 ――『弱者が強者から身を守るために作り出した、卑しい奴隷の道徳に過ぎん』 「……奴隷の、道徳……」ノアムは、乾いた笑いを漏らした。 自分は見下していた。彼らを弱者だと、奴隷だと。 だが、本当に弱かったのは誰だ? 旧世界を憎み、自分を認めない者すべてを怨み、神の名を借りてまで、ただ世界に認められたいと願っていたのは。 「は……はは……ははははは!」 狂った笑い声が、燃え盛るブリッジに響く。 「偽善者は、アルスではなかった……! 神の名を借りて、自分の欲望を正当化し、ただ認められたいと願っていただけの……この俺の方だったのだ! 俺こそが……! 見下していたはずの、奴隷だったというのかァッ!」 自己矛盾の絶叫が、頂点に達した、その瞬間。 ブリッジの天井が轟音と共に崩落し、燃え盛る鉄骨が彼の上に降り注いだ。 「ああ……神よ……」 灼熱の痛みに意識が遠のく中、彼の口から漏れたのは、もはや狂気の叫びではなかった。それは、あまりにも弱々しく、あまりにも人間的な、途切れ途切れの呟きだった。 「もし、そこに…おられるのなら…。この私にも…光は、与えられたのでしょうか…。ただ…認められたかっただけの…この、愚かな、私にも……」 彼の最期の言葉は、誰に聞かれることもなく、鉄と炎の中に飲み込まれていった。 稀代のカリスマにして、狂信の預言者、ノアム。 彼の野心は、彼が揺り籠にしようとした方舟と共に、燃え盛る棺桶となって、星の海の墓標と化した。 一方、フレイヤは、小型の脱出艇の中で、激しい衝撃に耐えていた。 リリスの最後の力のおかげか、脱出艇はどうにか大気圏の摩擦熱に耐え、降下速度を落としている。 だが、フレイヤの身体もまた、限界だった。 方舟での死闘、そして精神的な極度の緊張が、彼女の身体に最後の引き金を引いた。 「……うっ……く……!」 腹部に、今まで感じたことのない、周期的な、そして引き裂かれるような痛みが走る。 産気づいてしまったのだ。 こんな、最悪の状況で。 眼下には、見覚えのない、荒廃した大地が迫ってくる。木々はなぎ倒され、地面は黒く焼け焦げている。ケイオス・ロゴスの「浄化」は、この星の至る所に、深い傷跡を残していた。 「……ここで……産むっていうのかよ……冗談じゃない……!」 フレイヤは、悪態をつきながら、必死に操縦桿を握りしめる。 やがて、脱出艇は、凄まじい衝撃と共に、荒野に不時着した。 静寂。 全ての音が消え、ただ、自分の荒い息遣いと、身体を苛む陣痛の波だけが、世界の全てとなった。 フレイヤは、満身創痍の身体を引きずり、艇の外に出た。 空は、まだ薄紫色に濁っている。アルスの障壁も、もはや消えかかっていた。だが、ケイオス・ロゴスの奔流は、なぜか勢いを弱めている。まるで、その目的の大部分を達成し、満足して引き上げようとしているかのようだった。 「……アルス……あんた、本当に……馬鹿だよ……」 フレイヤは、涙を流す気力もなかった。 彼女は、脱出艇の残骸に身を寄せると、たった一人で、命を懸けた最後の戦いに挑んだ。 それは、新たな命を、この滅びかけた世界へと産み落とすための、壮絶な戦いだった。 どれほどの時間が過ぎたのか。 痛みと意識の混濁の中、フレイヤは、声の限りに叫んだ。 そして。 「――オギャア、オギャアア!」 静寂の世界に、一つの高らかな産声が響き渡った。 それは、この星に残された、最後の生命の音だった。 フレイヤは、震える手で、血と羊水にまみれた小さな赤子を抱き上げた。 男の子だった。 その顔は、憎むべきあの男に似ているようでもあり、自分に似ているようでもあった。 彼女は、疲労の限界を超え、朦朧とする意識の中で、その子を胸に抱いた。 温かい。 小さい。 そして、確かに、生きている。 彼女が顔を上げると、汚染された紫色の空の向こうから、朝日が昇り始めていた。 それは、絶望的なまでに弱々しく、しかし、どこか希望を感じさせる、新しい世界の夜明けだった。 フレイヤは、腕の中の赤子に、そっと囁きかけた。 「……生きるぞ。私と、お前で。この、ろくでもなくて、それでも……あいつが守ろうとした世界で」 滅びた世界の最後の遺産か。 あるいは、新たな世界の最初の希望か。 その答えは、まだ誰にも分からない。 ただ、静寂に包まれた星で、たった二人きりになった母と子が、新しい朝を迎えた。 それだけが、確かな真実だった。 エピローグ:夜明けの産声 あれから、いくつの夜と朝を繰り返しただろうか。 フレイヤは、赤子を抱いて歩き続けていた。 彼女が産み落とした男の子は、驚くほど丈夫だった。汚染された大気を吸い、わずかに残った汚染された水を飲んでも、彼は力強く泣き、母親の乳を求めた。フレイヤは、その生命力に、何度も励まされた。 世界は、静かだった。 鳥の声も、風の音も、ほとんど聞こえない。時折、かつて街だった場所の廃墟を通りかかるが、そこには動くものは何もない。文明の残骸だけが、墓標のように立ち尽くしている。 ケイオス・ロゴスは、去っていったようだった。空は、ゆっくりとではあるが、かつての青さを取り戻しつつある。だが、失われた生命が戻ることはない。 フレイヤは、赤子に「アベル」と名付けた。 それは、かつてアルスが読んでくれた聖典に出てきた、兄に殺されたという羊飼いの名だった。なぜその名を選んだのか、彼女自身にもよく分からなかった。ただ、その響きが、この静かな世界にふさわしいように思えたのだ。 ある日、彼女は、見覚えのある山脈にたどり着いた。 世界の忘れられた背骨。グランドル修道院のあった場所だ。 彼女は、何か不思議な力に導かれるように、その山道を登った。 修道院は、残っていた。 ケイオス・ロゴスの浄化は、なぜかこの聖域だけを避けて通ったかのようだった。苔むした石造りの建物は、アルスが旅立ったあの日と、何も変わらずにそこに佇んでいる。 フレイヤが、恐る恐る聖堂の扉を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。 祭壇の前に、一人の老人が、静かに祈りを捧げていた。 アルスが話していた、修道院の院長だった。 院長は、フレイヤの気配に気づくと、ゆっくりと振り返った。その皺深い瞳が、フレイヤと、彼女に抱かれた赤子を捉え、わずかに見開かれる。 「……お帰りなさい」 院長は、全てを理解したかのように、静かに言った。 「アルスは……最後まで、己の信じる道を往きましたか」 フレイヤは、何も答えられなかった。ただ、涙が、後から後から溢れてきた。旅に出てから、初めて流す涙だった。それは、悲しみや、悔しさや、安堵や、その全てが混じり合った、温かい涙だった。 院長は、フレイヤを聖堂の中に招き入れた。 彼は、フレイヤの腕の中で眠るアベルの顔を覗き込むと、その皺だらけの手で、そっとその頬を撫でた。 「この子は……希望ですな」 院長は、穏やかに微笑んだ。「滅びの後に残された、新たな世界の、最初の希望じゃ」 フレイヤは、祭壇の奥に安置された、空っぽの石櫃を見た。 アルスが、ずっと祈りを捧げていた場所。 結局、「神々の言葉」は見つからなかった。世界は救われず、ほとんどの命が失われた。 アルスの旅は、無駄だったのだろうか。 「いいえ」院長は、フレイヤの心を読んだかのように言った。「無駄ではなかった。彼は、世界を救うことはできなかったかもしれん。じゃが、彼は、一人の女性の魂を救い、そして、一つの新たな命を、未来へと繋いだ。それこそが、何よりも尊い奇跡ではありませぬか」 その言葉に、フレイヤは救われた気がした。 ふと、彼女は気づく。 祭壇の上に、一冊の本が置かれているのを。 それは、アルスが最後まで持っていた、父の形見の聖典だった。彼が光となって消えた時、アララトの地に落ちたはずのもの。それがなぜ、ここにあるのか。 「あの方が、届けに来てくれました」 院長は、ステンドグラスを見上げた。そこには、蛇の体に獅子の頭を持つ神が、人に炎の文字を授ける絵が描かれている。 「あの方……ヘカテ様が、最期の力で、これをここまで」 フレイヤは、息を呑んだ。 その時だった。 今まで空っぽだった石櫃が、淡い光を放ち始めた。 そして、その内側に、一つの言葉が、ゆっくりと浮かび上がってきた。 『――汝、自らが光となり、明日を照らせ』 それは、神の言葉だったのか。 あるいは、アルスという一人の人間が、その生き様を通して、世界に遺した、最後のメッセージだったのか。 もはや、どちらでもよかった。 フレイヤは、腕の中のアベルを、強く、そして優しく抱きしめた。 彼女は、顔を上げる。その瞳には、もう迷いはない。 この子の手を引き、この静かになった世界で、二人で生きていく。そして、いつかこの子が大きくなった時、語って聞かせるのだ。 世界を救おうとした、一人の愚かで、心優しい聖職者の物語を。 そして、彼と共に旅をした、三人の訳ありな女たちの物語を。 外では、新しい世界の、本当の夜が、明けようとしていた。 それは、とても静かで、穏やかな、夜明けだった。 (了)